きょうの旧約聖書は時について、新約聖書は労働者と雇い主の雇用契約について書いて
あります。時と賃金、全く関係ないことのようですが、実は同じことを教えています。
まず、イエス・キリストが生まれるより前に書かれた旧約聖書。
全世界も全宇宙も、天国も地獄も、私たちにとって、在って当たり前の「時」も、神が造りました。造った神自身は、自分の造った時間の制約を受けません。神は永遠なのです。
コヘレトの言葉3章11節。この言葉は聖書の別の翻訳:口語訳や新改訳で
「神のなさることはすべて時に適って美しい」と書かれる美しい言葉です。
3章2節から8節に色々な時が書かれています。生と死、育てると収穫。
「嘆く」とは葬りのこと。「踊る」とは祝いのことです。
石を放つとは戦いを意味し、石を集めるとは軍備など備え、準備のことを言います。
日本人の習慣に無い「裂く」とは聖書の時代のイスラエル人が服を裂いて、嘆きや抵抗を表現したことを現わしています。衣服はその人の立場や職務を現わしました。
聖書の中に、よく「衣を裂く」という言葉が出てきます。
6節の保つ、放つは、この書物を書いた有名なダビデの息子ソロモン王を思い出して考えましょう。保つとは国を、政権を保つ。放つは政権を失う、手放すことと解釈できます。
もう一つの新約聖書のマタイによる福音書。福音書はイエスがその生涯で教えられたことが書かれています。このぶどう園の収穫には、いろいろな解釈があります。
神がぶどう園の経営者である主人に喩えられています。主人は雇い入れる労働者と、
1デナリの契約をします。デナリとは当時の日雇いの労賃1日分の給金の単位です。
「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか」と聞かれて、「だれも雇ってくれないのです」自分はずっと立っていたくはありません。雇い主も仕事も見つからないのです。
午後5時になっても待ち続けていた人は答えました。
夜明け、9時、昼12時、3時、5時。雇われれば労働できた時間は、雇われなかった人には生活不安の時間です。先に働きだした人には不公平な賃金でも、後の人にはようやく得た糧です。後から給金をもらった夜明けから働いた人にはブラックな環境でしょうか。
雇われた時間は違っても、彼らは同じ主人に雇われました。主人に会わなければ、仕事はありません。仕事が無ければ賃金もありません。
主人は自分のぶどう園のために、自分の金で、労働者を雇ったのです。
この箇所でつい、私たちは自分を夜明けから働いていた人と思う傾向があります。
薄暗いあたりがよく見えない夜明け、太陽が昇り暑く照らす昼間、そして日が陰り1日の
終わりが近づく夕。
神に出会い信仰を持ったのが子どもの時:つまり夜明けか、老年に入った5時か、とか、
万全の体力を持った健康な人と、病気が事故などで働きに困難のある人を現わしたとか、
この時間を時代と考え、神と人が関わった歴史の流れと考える解釈もあります。
1人の人の人生でも、世界の歴史でも、神はすべてを時の中に置かれた方。
その時、その人が必要とするものを知っている方です。私たちは自分の人生は自分が計画し考えて進めている、と思いますが、私たちの人生も宇宙の星の運びも、タイミングも必要も、すべて神が創り出した天地万物のほんの一部。人は時の中で生きています。
そして人には永遠を思う心が与えられている。人が神の行いすべてを見ることはできません。人間が創造された時、当然ですが創造主である神はすでに存在していますから、
コヘレトの言葉7章14節には「順境には楽しめ、逆境には考えよ」と書かれています。
人が未来を知らずに居るように、神が良い時も悪い時も造られた、と。
2章にも「人間にとって最も良いのは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ」という言葉があります。
ぶどう園の主人が与えよう、と約束した「ふさわしい賃金」は、雇われた者の能力も、雇われた時期も、もしかしたら収穫したぶどうの実の状態も、一切関係なく、主人がその人に支払う、と決めた、その人の1日分の賃金でした。
ぶどう園で支払われた賃金。それは神が造られた世界で、生活する私たちの人生そのもの。
私たちが生きて経験する人生そのものです。
「人が労苦してみたところで何になろう」と言って、拗ねてやけっぱちになっているように見えるコヘレトの言葉9節~14節の書き方は素直でないですね。わかりにくいです。
人が仕事をすることができ、それによって衣食を手に入れられることは、神からの賜物
ギフトだと言っています。働くことも、飲食も、人が満足して楽しむことそれ自体が、
神が私たちに下さったもの。受け取って喜び楽しめ と。
でも、人生は、善い、楽しい、と喜べることばかりではありません。
でも神にとって、「今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと」
アダムもソロモンも私たちも、いつも永遠を生きる神の目の前にいます。
自分に見えるものに目を奪われどうしても神に目を向けることができない私たちのため、それでも「永遠」に憧れ続ける人のために、神の独り子イエス・キリストは人として、
この世に生れました。永遠の神が死ぬというありえないことによって、神は人に永遠を与えました。神の子の命は、神が土の塵から造った人間に、神の国の国籍を与えるための代価として支払われました。彼は人の世で人と共に生きて、すべての人の身代わりとして十字架で死に、そして復活して人に永遠の命を約束しました。
ふさわしい賃金を決めたのは主人です。私たちの立場:神の家族としての国籍を決めたのは神です。この知らせをいつ受け取ったとしても、神にはいつも、今です。
ぶどう園の主人は「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、
わたしの気前のよさをねたむのか」と言いました。
私たちがいつから働いたか。夜明けか午後5時か。雇われた時期を主人は気にしません。
神が決めたあなたにふさわしい賃金を、受け取るのは今です。
お祈りいたします。
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