きょうお読みいただいた箇所は、命令する言葉が沢山、出てきます。
上に立つ権威に従うべきです。善を行いなさい。義務を果たしなさい。そして愛しなさい。
「愛しなさい」?愛とは命令されるものでしょうか?
権威に従いなさい、には、決まりを守りなさい、という意味もあります。
聖書の時代も今も、社会生活のために 決まりはあります。自分たちはキリストに救われ、
キリストに従う。もう自分は国の法律や権力に従う必要はない!と考える者もいました。
私たちは信仰の有る無しに関わらず、信号を守り交通事故を防ぎます。決まりだから掟だから法律だから。命令されて行うだけでなく、自分も人も危険な目に会わないよう「権威ある者」に従うことが、自分の意志で善を行うことに繋がります。
キリスト教の教えには、従いなさい、守りなさいなど、~しなさい、という掟が沢山あります。旧約聖書の、創世記から申命記までの5つの書物:創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記がモーセ五書と呼ばれユダヤ人が律法の書としている書物です。
きょうの旧約聖書箇所に、なぜ掟を守るか、目的が書いてあります。
申命記はモーセがイスラエルに、出エジプトの旅を導いた神の御業を語った書です。
主が与えた掟と法はそのまま、付け加えることも削除することもしてはいけない。
忠実に行いなさい。そうすれば、主が先祖に約束した土地を手に入れることが出来る。
あなた達は与えられた土地で、掟と法を行いなさい。そして子や孫たちに語り伝えなさい。
モーセを通し、主はそう言われました。
約束の地で生活を始める民に主が与えた約束は、豊かな財産でも、周囲の国と戦える強さでもありません。掟と法を忠実に行う彼らを、諸国の民が知恵のある民、良識のある民と知る。
彼らは賢明な人々だと、諸国の民が言うようになるというのです。
そして、主はイスラエルにモーセを通して「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日 あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。」
天地万物を造り出した神である私があなたたちの近くにいつも居る。
与える掟と法の正しさは、神が証明する、と宣言されたのです。
民は まだ約束の地に入っていません。約束の地の産物を手に入れていません。
彼らは毎日、主が与えて下さる天からのパンであるマナを食べて暮らしています。
神の力が無ければ、自分たちが生きられないことを彼らは実体験として毎日、経験しています。でも彼らの旅が終わり、約束の地に入れば。彼らは土地の産物を食べるようになり、彼らはその土地で作物を育て地の実りを得ることになります。民が地を耕し、種を蒔き、収穫する。民がその土地で得た実りが主の恵みと祝福によるものであるとを忘れないために。
この民は忘れてしまう民。主を見失う民。長い旅の中、マナによって、民自らの力では得ることができない食物によって生かされていても、主に背き滅ぼされた者がいたのです。
彼らが主の前から迷い出て、主が共に居て下さることを忘れないために。彼らが主を呼び求めて生きる民であるために。主の掟と主の法を持ち、知恵と良識を持つ主の民であることが必要だったのです。
新約聖書ヨハネの手紙Ⅰの4章にこのような言葉があります。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。
これが、神から受けた掟です。」
神がイスラエルに掟を与えたのは、神がイスラエルを愛し、選び、導き、生かしたからです。
主が私たちの罪のためにイエス・キリストを遣わし、私たちに救いと命を与えて下さったのは、主なる神がご自身でつくられた人間である私に、私たち一人一人に心惹かれて、
キリストを十字架に架けてでも、私たちに生きてほしいと、命の主に至る道を選んでほしいと、願い望んで下さったからです。
上に立つ権威に従うべきです。パウロはローマの信徒にこう書き送りました。
人間の歴史の中に間違は無い、と言える人はいません。歴史の中で起きた戦争や過ちの数々を私たちは歴史として学びます。残念ながら、神からの権威を持つと思いたくない歴史上の人物は沢山います。パウロは上に立つ権威はすべて神による。神に由来する、と言ったのです。
パウロは無抵抗で従えと命じたのではありません。パウロは権威者に向ってではなく信徒たちに、いま信徒たちの上に立つ人間がどんな人物であっても、権威は神に由来すると知って、彼らを神に委ね、義務を果たしなさい。貢を:税を納めなさいと教えたのです。そして、
『「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。』と教えました。
権威者が自分の負う責任を知らなくても、権威が神に由来すると知らなくても。
その権威が国家や世界に及ぶものであっても、家庭や人と人の間のものであっても、
互いに愛し合うことのほかは誰に対しても借りがあってはなりません。
「愛する」と「好き」は違います。好き、は感情が動き心惹かれること。
ムッとする。むしろ嫌い。それでも。愛とは、神がキリストの十字架で示されたように、
感情ではなく意志と行動です。
主イエスは言われました『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 また『隣人を自分のように愛しなさい。』
主の十字架によって赦された私に主は、やはり十字架によって救われたその人を、
知恵と良識を持って愛し、その人の働きを通して主に従うという道を示されました。
簡単ではありません。ですから、祈りと聖霊なる神の力が必要なのです。
神に愛されている者として、私たちに委ねられているのは、互いに愛し合うという働きです。
お祈りいたします。
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