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「誰にでも神の力」

 

 世の中には、情報が溢れています。テレビや新聞、インターネット。交通機関の中の広告も、印刷物から画面につぎつぎ映るコマーシャルや短い番組に代わってきています。

多すぎて、どれを選んだらよいかわからない。どれが本当で、どれは疑った方がいいのか、

迷うばかりです。私たちは知恵と情報が欲しいのです。毎日、生活しながら焦って必死に

なって、情報を探しています。なぜでしょう。

命がかかっているからです。もし、手に入れたものに間違いがあれば健康を失い、生活に

必要なお金を失うこともあります。もし、常識だと思っていたことが間違っていたら。

この土地には地震はない。ここには津波は来ない。この建物にいれば、危険はない。

信じて安心していたことに「想定外」があった、と知らされて、虚を突かれる。

そんな経験を私たちは何度もしてきました。

 パウロがまだ会ったことの無いローマの信徒に手紙を書いたのは、彼らの足元が危ないと気付いたからです。 ローマの信徒たちは当時、もっとも大きく強い国ローマの、支配階級の人々の家が見える場所にいました。すでに人口100万人に達しようかという古代世界随一の都市。彼らクリスチャンたちは100人にも満たない小さな、川岸の低地の小さな家に集まる群れでした。川の向こうの高台には、大きく豪華なローマ皇帝の側近たちの屋敷があります。ローマは有名な偶像崇拝都市です。皇帝を神として崇め、ギリシアの神話の神々の像や、辺境の民族の神々:旧約聖書でたびたび書かれたバアルやアモンなどの神々も、

ローマ人は像を造り神殿を建てて崇拝していました。町の辻ごとにある巨大神殿は多数。

人々はすべて拝んでおけばどれかの利益はあるだろうと、利用していました。

 パウロは手紙の冒頭 呼びかけています。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、…神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」選び出されるという言葉は、ギリシア語でファリサイオス パウロの

出身学派の名前でもあります。そしてパウロという名前は小さいもの を表すパウロスから来ています。自分は神に福音のために選ばれてキリストの奴隷の身分になっている小さな者です。その私が神に召し出されて聖なる信徒となったローマの皆さんに手紙を書きます。

小さなキリスト者の群れに、あなたたちは世界一の都市に君臨する異教の皇帝ではなく、

真の神に召され信仰を持った人たちです、と、敬意を示したのです。

ローマ帝国の支配地域で伝道する私が、あなた達のところにまだ行かないのは、必要ないと思っているのではないのです。私は何とかしてあなたたちにこの良い知らせ=

福音を伝えたい。あなたたちは、この福音を理解できる。なぜならあなたたちは信じて救われたのです。神はあなたたちが信じた、その信仰によって福音を実現されるのです。

 パウロはローマ人たちの宗教の形を批判しています。神がその御手で造られたすべてを、偶像として拝む。彼ら偶像崇拝者たちは、真の神、天地万物を造られた主なる神を、

人間が造った沢山の偶像と同列に置いて、真の神にたいへんな無礼を働いています。

この無礼を冒涜と言います。

まるで現代人のようです。沢山の生活の知恵やお得な情報と聖書の神の福音は同列に置かれています。目に見える、わかりやすい問題解決を探して、情報を検索し続ける私たちは、

時々、古代ローマ人と同じ過ちを犯します。彼らローマ人も、現代の私たちも、言い訳の

余地はありません。神は見間違いようがないほど、明らかに、私たちにご自身を示して下さっています。

 きょう、お読みいただいた詩編19篇は、神がその御手で創造された大いなる自然を通して、私たちにご自分を示して下さっているようすが書かれています。

この詩編を残したダビデ王は、有名な詩人でもあります。今、夏から秋へと季節が変わり、晴れた空も美しい季節が来ました。古代ローマ人に聞きたいものです。あなたたちは太陽だ、月だ、と拝んでいるけれど、それを誰が調和させ、整えたと言うのか、と。 

唐突ですが、私たち人間の体はとても沢山の物質で出来上がっています。それはとても

多様で、地球上では、いえたぶん、太陽系全体でも、さらに銀河系まで範囲を広げても、

すべての材料を揃えることはできないそうです。神が、天地創造の時に使われた「土の塵」は、地球上で私たちの足元だけではなく全宇宙に広がっている。私たちの体と同じ物質は、

全宇宙に広がっているらしいのだそうです。

 私たちを創造された神は、私たちの体だけ見ても、こんな不思議なことをされました。

同じ神が、私たちにどう生きるべきかを知るための決まり事を与えて下さいました。

そして前の時代に生きた人間たちがどう生きたか。決まり事を守ることができたか、彼らが正しかったか間違っていたか、聖書を通して知ることができるようにして下さったのです。

 ダビデが書いたように、本来、神が与えて下さった律法や掟は、私たちの魂を生かし、

知恵を与え、喜ばしいもののはずです。神が望まれる生き方、聖さを私たちが持って生きるなら、私たちは神と共にある生活を真に楽しめるはずです。神の御心に適う生き方は、私たちが曇りなき聖い者として生きるなら、私たちにとって純金より素晴らしく、蜂蜜よりも

甘く感じるもののはずです。それなのに、私たちは焦っています。

健康を守るために若さを保つために、命を守るために、そして騙されて失敗しないために。

 パウロは、キリストの福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ、と書きました。

偶像の立ち並ぶ町の小さな群れの一人一人。彼らが受けたよい知らせ=福音とは、イエス・キリストがすべての人を救うために十字架に架かり、その死によって罪の贖いを完成されたこと。そしてイエスは死者の中から復活し、今も神の右にいて私たちのために執り成していてくださること。この福音を信じ、伝え続けている彼らに、あなたたちが信じた神、あなたたちが選び取った神があなたたちを選び出した。すべての人は、福音を信じるなら、この福音によって神の力を受けている。あなたたちは救われた。神がキリストによってあなたたちを正しい者と認めて下さったのだ、と。

 すべての人は、キリストの福音を信じるなら、神の力を持つ者なのです。

私たちは十字架によって、本来の人間の生き方ができる神の力を与えられました。

私たちは人々の救いを喜び、主の愛が注がれていることを喜ぶ力を頂いています。

信じて神に向うことは、命の道をあるくために、神の力をいただいて生きることなのです。

お祈りいたします。