弟子たち 特に12弟子はガリラヤ出身者がほとんど。彼らにとって、エルサレムの神殿は地元では考えられない壮麗な建築です。こんなに美しいのに、イエスは振り向きもせずに境内を離れて行く。「なんと素晴らしい建物でしょう」そう言って、たぶん神殿を振り返っていた弟子たちにイエスは、やがてこの神殿も石の一つも完全な形が残らないほど、破壊される時がくる、と言われました。きょうのマルコによる福音書13章は終末預言の章と呼ばれています。
イエスがオリーブ山で神殿を眺めながら座っておられると、4人の一番古くからイエスと共に居る弟子たちが集まって、先ほどのイエスの言葉に恐れをいだいた自分たちの不安を訴えました。イエスは彼らに「気をつけなさい」と、大きく2つのことを伝えました。
一つは、人に惑わされないように。
・イエスの救い主の名を騙るニセモノが現れ、人々を惑わす。
・戦争や国民同士、国同士の争い、 ・地震があちこちで起こる。 ・飢饉。
すべて、今の私たちのまわりで起きています。ニセモノ救い主は日本でも世界でも、時々、事件になります。戦争や紛争は武器を使う争いの他に、経済や情報、うわさ話などで起きる騒動もあります。地震も、ここでは耐震工事や備蓄などではありません。天災そのものよりも、災害の中で起きる、人の心や言葉による混乱が起こす騒動に注意せよと言うのです。
飢饉とはただ食料や農作物の不足する状態ではなく、死ぬ人が出るほどの状態を言います。
戦争も災害の時の風評被害も、飢饉も、人と人の関係に問題が起き社会のシステムが崩壊している状態を表す言葉です。
もう一つのイエスの「気をつけなさい」は、弟子たち、イエスの言葉をいま聞いているあなたたちたち自身に及ぶ困難についてです。地方法院、会堂、総督や王の前。3つの場面を
イエスは想定されました。地方法院 これは今の日本で言う国や自治体を運営し法的管理をしている所。会堂とは今の教会にあたります。つまりこの先、あなたたちは法的に裁かれ、宗教的に共に礼拝する教会で攻撃され、政治的な力によって危機的な状況に置かれる、と
いうのです。
さらに、兄弟関係や親子関係といった家庭や親族の中にも争いが起き、命にかかわる事態に発展してしまう、と言います。残念なことに、私たちはこのイエスの言葉がすでに現実のものとなった事件をいくつも、ニュースなどによって知っています。
どうしたらいいのだろう。私たちを不安にするばかりのイエスの言葉です。
きょうお読みいただいた出エジプト記。ここで、エジプトから救い出されたイスラエルについて、私たちが聖書で学ぶ意味を考えてみたいと思います。
イスラエルは神の選びの民とされました。これは、イスラエルが神から愛されるただ一つの民族だと言うのではありません。イスラエルだけが神が救うために選ばれたなら、私たちが聖書を学ぶ必要はありません。私たちは聖書でいう異邦の民ですから。
イスラエルは選ばれたのです。神が人とどのように関わって下さるか、聖書を通して全人類に教えるために。神はすべての人を愛しています。すべての人が神を信じ救われることを、神が心から望み願い、計画し約束されるのです。
イスラエルが置かれていたエジプトの奴隷、という身分。これをそのまま、罪の奴隷の
喩えとして見る。すると、彼らの長い出エジプトの旅も、イスラエルの王国の成立と滅亡も、すべて私たちの信仰生活の喩えとして見ることができます。
モーセとアロンの兄弟は神から選ばれ、遣わされました。彼らは神の救いの計画を民に語りましたが6章9節 民には話に耳を傾ける意欲も余裕もありません。奴隷として課されていた重労働で疲れ希望を失っていたのです。
神がモーセたちに伝えられたご計画を見てみましょう。
・エジプトの重労働の下から導き出し、奴隷の身分から救い出す。
・腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。
・イスラエルを神の民とし、神ご自身が彼らの神となる。
・約束の地に民を導き入れ、そこを所有させる。
これを私たちへの罪からの救いの約束として読み替えてみましょう。
罪を赦し神の民として下さり、神の国に導き入れ、私たちに神の国の国籍を与えて下さる。
6章6節は出エジプト記で起きた神の奇跡として読まれて来ました。でも、
腕を伸ばし、審判によって贖う。これはイエス・キリストの十字架を表す言葉です。
モーセとアロンはイスラエルを救うためにエジプトの王ファラオに語るよう、神から命じられました。ファラオは政治的にも軍事的にも強い権力です。モーセはファラオが自分の
言うことを聞き入れるだろうか、と不安を訴えます。
これは、先ほど学んだマルコによる福音書13章でイエスが語られた王や総督の前で語る、状態。イエスはそんな危機の中も、悩まなくてよいと言われました。言うべき言葉は聖霊があなたたちに教える。いろいろな困難、試練に私たちは会うでしょう。でも起きるすべての事をイエスは想定しておられました。主は私たちの弱さをご存知です。
「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われたのは、苦しみをすべて経験した者は救われる、と言っているのではありません。人の惑わしにも、攻撃にも、私たちの中で私たちと共に、イエスの霊である神の霊である方、聖霊なる神が働き戦って下さいます。
まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない、と主イエスは言われます。この約束を先に知った私たちを、神はモーセたちのように力づけ、遣わされるのです。
エジプトから救い出されたイスラエルは、荒野の40年の旅の途中、しばしば神に反抗し、以前の奴隷の暮らしの方が良かった。あの時は楽しかった、と文句を言いました。
ネヘミヤ記9章21節に「四十年間、あなたが支えられたので彼らは荒れ野にあっても不足することなく着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった」とあります。
どんな困難も、神の御業を止める力はありません。神のご計画を変える力はありません。
多くの困難を越えてイエスが約束された救いは、必ず果たされます。
お祈りいたします。
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