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「主が選ばれる」

 

 パウロは主イエスをキリスト・イエスと呼びました。主がキリストつまり救い主であることを強調する言い方です。私はこの救い主に感謝している。

パウロは自分は神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者だったと言います。

パウロが過去、ユダヤ教のファリサイ派の指導者としてキリスト教徒を迫害していたことは、彼の弟子で医者だったルカが使徒言行録に書いています。

迫害とは神聖なもの尊いもの大切なものを貶め汚すこと。パウロはこの手紙で、過去の自分の行動を冒涜と呼びました。でも、迫害者パウロは、真剣な信仰と熱意をもっていました。彼がキリスト教徒を迫害していたのは、人間であるナザレのイエスを神の子だと言って、

神を冒涜したから。自分が迫害している人々が信じている、イエスという男。十字架で罪人として裁かれた男が、復活したキリストとして自分のまえに現れた時、彼は打ちのめされました。この人が神の遣わした救い主であり神の子であるとは。神を冒涜しているのはキリスト教徒ではなく自分の方だとは!彼がテモテへの手紙で書いたように「信じていないとき、知らずに行った」のです。

 パウロは憐れみを受け、救われました。救い主が自分に限りない忍耐を示して下さった、わたしが永遠の命を得ようとする人たちの手本となるためだ、と彼は言います。

パウロが来ると聞いただけで、その名前を聞くだけで、キリスト教徒たちが恐れて逃げ隠れていた人です。命の危機を感じさせたこの人が、永遠の命を与える神を伝えるためにやがて聖書として編集される手紙を書きました。人々にキリストの福音を語る人になったのです。いま、私たちは新約聖書を自分の言語で読んでいます。その中の2/3がパウロの書いた手紙で占められています。パウロの生涯とその手紙によって私たちは大切なことを学びます。

それは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という真実と、神の憐れみは迫害者、殺人者さえも憐れみ、忠実な神の働きをする者に造りかえることができる、という素晴らしい福音です。パウロはこのために選ばれたのです。

 きょうの旧約聖書は後にイスラエルの伝説の王となる若者が、主なる神に選び出された時のことが書いてあります。

祭司であり預言者であり士師:裁き司であったサムエルは、神から王を任命する役割を与えられていました。神が選んだ人物を王とし、聖別の油をその人の頭に注ぐ清めの儀式を行うのです。王は「油注がれた者」と呼ばれます。この「油注がれた者」がヘブライ語ではメシア(メサイア)、ギリシア語ではキリストにあたります。

本来、メシア キリストには救い主だけでなく神が遣わされた王の意味があるのです。

 神はサムエルをベツレヘムに住むエッサイのところに遣わしました。この家の息子たちの中に、王となるべき者がいると神に示されたサムエルは、いけにえの雌牛を食べる祭司の会食にエッサイと息子たちを招きました。

サムエルが神に導かれ油を注ぐのは2度目です。サムエル記上10章で、彼はサウルを王に任命しました。しかしサウルは神と神の預言者であるサムエルの言葉に従わなくなり15章でとうとう、主はサウルを王位から退ける、とサムエルを通して宣言されました。

しかし、この時まだ、人々の前でサウルは王として君臨しています。サムエルがサウルの次の王を任命する、とサウルが知ることはサムエルにとって命にかかわる危険でした。

ダビデは巨人ゴリアテと戦って勝った人として知られています。ミケランジェロの彫像などの元となった箇所は、もう少し後に出てきます。サムエルがエッサイ家に来た時、父も兄たちもダビデを子ども扱いして、数の内に入れませんでした。あの子は親の羊の群れを世話して野を駆けまわっている。でも神はダビデを選ばれました。

ダビデは健康で澄んだ目の若者。でもまだ兄たちのような姿の美しい背の高い大人ではありません。けれど、主がサムエルに言われたように

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」のです。

この日任命したサムエルは当時の聖所の町ラマに帰りました。油注がれたダビデを神に委ねて自分の務めに戻ったのです。ダビデは激しい主の霊の注ぎを受けるようになり、神の霊によって導かれる人生を生きはじめました。

 パウロは自分を罪人の中で最たる者 罪人たちの第一の者、罪人の頭であると言いました。彼は自分の過去を忘れてはいません。隠してもいません。

主はダビデを王として選び、ご自身の霊を注いで導かれました。パウロも主は自分を憐んで下さった。あふれるほどに救い主イエスへの信仰と愛と恵みを与えられ、主が確かに自分を用いて下さる、と、感謝しました。パウロがテモテに言った「あなたについて以前預言されたこと」とは6章12節。テモテが多くの証人たちの前で信仰告白し、エフェソ教会の牧師に任命された時のことです。多くの人があなたのために祈り、主は恵みを注いで下さった。。信仰と正しい良心を持って雄々しく戦いなさい。

 パウロに「彼らは良心を捨てた」と言われた人たちがいました。指導者である彼らの挫折は、信徒に深刻な影響を与えました。迫害者、冒涜者だったパウロだからわかるのです。

どんなに学びを積んでも、それが間違った熱心と愚かな行動を生むなら無知と同じ。

主の憐れみ無しには立ちあがれないのです。

 私たちは神のまえに選び出され、信仰と、神の家族と共に集う教会と、主のために働く

役割を与えられました。 救い。それは罪を清め赦す主の御業です。

それだけでなく、パウロの過去の罪が手本となったように、これまで犯した罪にも後の人生にも、新しい意味を与える主の恵みの業です。

時に私たちは間違えます。主の選びは自分に価値があるからだ、と誤解するのです。

その誤解は、私たちを神から引き離す力になってしまいます。

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」パウロが感謝をこめて言ったように、

わたしたちが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず限りない忍耐をお示し下さったからです。パウロと同じく。私たちも自分がどのような者か、知っています。

もう一度、自分の罪と主なる神への信仰を告白し、感謝と賛美を捧げましょう。

私は主に選ばれ救われました。

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」私は罪人の中で最たる者です。

お祈りいたします。