· 

「目を覚まし目を上げ見渡せ」

 

 前もって言っておく。主イエスは弟子たちにそう言いました。同じ13章のはじめにも、偽の救い主や預言者が現れる、と警告されています。惑わされないように気をつけなさい。

マルコによる福音書が書かれたのは、西暦65年から70年。4つの福音書の中で一番短く一番先に書かれました。いま、聖書にある書物で、この福音書より前にパウロの手紙が書かれています。西暦60年代の後半は、ローマのネロ皇帝によるキリスト教徒迫害が起こった時期。沢山のクリスチャンたちが信仰を理由に投獄され、処刑され、ペトロもパウロもこの迫害で殉教しました。信徒たちは恐れおののきながら、互いの信仰を励ましあいました。

惑わされないために、主イエスを忘れないために、イエスの生涯とその教えを伝えるため、福音書が書かれました。

 それまで12使徒やその弟子から口伝えで福音を聞いていた信徒たちには、イエスが約束された再臨。主が再び世に来られる、という約束は希望の光でした。みんなが待っていた。

だからこそ、偽者が次々、表れたのです。でも、この13章でイエスが言われた再臨は、

「ここだ」「あそこだ」と人々が迷うようなものではありません。雲に乗って来る主イエス。天使たちが遣わされ、地の果てから天の果てまで選ばれた人を呼び集める。「知らなかった」「それ、本物なの?」と疑う余地のないありさまです。

 特にマルコ13章は小黙示録と呼ばれ、世の終わりについてまとめて書かれています。

太陽や月や星など天体に起こる事態の言葉は、読む人々を不安にさせます。昔からこの

イエスの言葉がそのまま起こる、と考えた人々が宇宙や地球の研究を重ねて来ました。

これがそのまま起きることは無い、とは言いません。人でしかない私に主はこれが実際に

起きることか、または何かの比喩表現なのか、明確には教えて下さいません。

例えば14節「荒らす憎むべき者」は、紀元前2世紀にギリシアの王がユダヤ教の神殿の祭壇に豚を捧げた故事とその王を意味します。が、迫害の中で書かれたこの福音書に当時のローマ皇帝の名があったなら、迫害を受ける危険は増す。そうならないために注意を払った文章とも考えられるのです。太陽を皇帝、月をユダヤ総督、天体が国家権力の比喩、国家の崩壊の危機を天変地異に喩えた、と見ることもできるのです。

 太陽を当時の人や国家ではなく、絶対的な権力や人々が中心と考える良いものあたたかいものの象徴と見たとしても。または全く比喩などでなく実際に世の終わりに天体が崩壊するほどの大災害が起きるとしても、その災害、その事件はこの福音書この章のテーマではありません。宇宙が崩壊しようがしなかろうが「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」のです。

 きょうのもう一つの箇所は旧約聖書イザヤ書51章です。ここにもマルコによる福音書と似た、天や地や人々が消え朽ち死に果てる世の終わりのような言葉が出てきます。ここでも主なる神は主の救いは永遠、主の恵みの業は絶えることは無いと約束されています。

教えはわたし主のもとから出るのだから、心してわたしに聞き、耳を傾けよ、と。

主の裁きはすべての人の光として輝く。主に信頼し主の教えを聞くとき、裁き主なる方の

正しさは人間の希望となり判断基準となるのです。

9節にあるラハブとは遊女の名ですが、これは強大な国エジプトを指す言葉です。

10節は出エジプトの紅海の奇跡を引用し、神の力の偉大さを言っているのです。

また11節のシオンはエルサレム神の都を指します。捕囚の民が願う故郷の都、エルサレムへの帰還のイメージと共に、天の神の国に迎え入れられる時の様子を思い描くのです。

歌いながら入っていく明るく楽しい喜び。こんな喜びの日、顔を伏せうなだれているのは

相応しくありません。主の救いが実現するその日、全能の神が私たちの救いを完成し、

私たちの望みが実現するなら。天に目を上げよ。天の主なる神の御顔を仰ぎ見なさい。

地を見渡せ。主が造られた御手の業を、主が創り出した全てを見て主をほめたたえなさい。主を信じてその救いが世に来たことを喜びなさい。主に贖われた者として神の国の民とされた者として、神の民の視点で見なさい。嘆きも悲しみも一時的なものだ。消え去る。

主をほめたたえよ。でも私たちの目に見える現実は厳しく、喜ぶことは難しいものです。

イエスは弟子たちがいつも使っている常識に喩えて教えました。

あなたたちはイチジクの木を見て季節を知るだろう。同じように、わたしから前もって

聞いたことが起こるのに気づいたら、再びわたしが帰ってくる日が近い、と知るだろう。

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」

 マルコ13章や黙示録のようなことが現実に世の終わりに起こる、と考えることが間違いとは言えません。主イエスが「目を覚ましていなさい」と言われたのは、もうじき世が終わる、と考えて怯えて暮らしなさい、ということではありません。

今はまだ、世界は人類すべてが死と病の恐れの中にあります。生活は厳しく、主は私たちに未来を見通す目を与えては下さいません。人の力で、起きるすべての危機を乗り越えることは困難です。主が私たちに言われたのは、目を覚ましていなさい。

文字通り、眠ってはいけないと言うのではありません。

 アメリカの植民地時代のニューイングランドで、日食で昼間なのに真っ暗になったことがありました。ちょうど州議会が開かれていて多くの議員が狼狽え「世の終わりが来た。議論をしている場合ではない。」と議会を休会にしそうになりました。その中で、1人の議員が

言ったのです。「私は世の終わりに備えて議会を休会するよりも、私の義務を果たしているところを主に見出して頂きたいと思います。ロウソクを持ってくることを提案します」

 預言者アモスの書4章12節「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。

きょうは待降節第1主日 第一アドベントです。人の子として来られた方に救いの望みを

置く、喜びの時が近づいています。

目を覚まし、目を上げ主の御顔を仰ぎ、御業のすべてをほめたたえつつ、

御子の誕生を祝う備えをしましょう。

お祈りいたします。