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「恐れず迎えなさい」

 

 ヨセフが思いがけないことに気づいたのは、マタイによる福音書にマリアの妊娠が「明らかになった」と知らされた時でした。婚約者が。妻となる女性が身籠っている。

ヨセフは正しい人。神の前につまり宗教的に正しい人です。

1章19節は彼の正しさと共に、彼のマリアを大切に思う心が表れています。

結婚している または婚約中の男や女が自分の相手以外と性的な関係を持つ。その2人は

石打ちで死刑。と、旧約聖書申命記22章 律法で定められています。ヨセフが律法的に正しい行動をするなら、婚約を解消し祭司にマリアの死刑を訴えるべき。でも「表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」彼女の死も彼女の家の恥も望まない。穏便に、彼女を逃がそう。ホセア書「わたしが喜ぶのは愛であって いけにえではない」とあります。マリアの犠牲は望まない。神の前に正しく人に優しい、ヨセフの苦渋の決断でした。

 ヨセフのその夜の夢に主の天使が現れました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

この語り掛けが彼の人生を大きく動かしました。

マタイは、ユダヤ人に向けて福音書:イエスの生涯の記録を書きました。私たち日本人は、ユダヤ人の持つ旧約聖書の知識も、長い神の民としての歴史も誇りもありませんので、時々、マタイの簡潔で短い文章に置いて行かれてしまいます。

ダビデの子 これには大きく2つの意味があります。ダビデはユダヤの2代目の王。

救い主はダビデ王の子孫として生まれる。神から遣わされた救い主は真の王としてダビデの王座を受け継ぐ、といわれています。ですから後にイエスは「ダビデの子」と呼ばれます。

天使にダビデの子と呼びかけられた。これは救い主に、ユダヤ人の真の王に関することだ。

ヨセフには、わかったのです。

天使は「妻マリアを」と言いました。神は我々の婚約解消を望んでおられない。

マリアに不義はない。聖霊によって、彼女は救い主の母となった。

イエスは「主は救い」という意味の名。妻を迎え入れなさい。

救い主の誕生を守り、民を救う主なる神のご計画を進めるために。ヨセフは自分とマリアに与えられた使命を知りました。マタイはイザヤ書7章14節を引用しています。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」

インマヌ は我々と共に。エルは神。 神は我々と共におられる。

「この子は自分の民を罪から救う」神は救いの計画を持っておられる。

まさに、マリアの胎内に宿った子によって、彼らは共におられる主を実体験したのです。

 エルサレムと、その神殿で礼拝したユダの民。出エジプトの旅の後、外国のように人間の王がいる国に憧れた人々の求めで、神は祭司を通し王を任命しました。しかし人間の王は度々間違い、神に背き、目に見える外国の力や人間の知恵に頼りました。そしてイスラエルは分裂しさらに外国からの侵略を受けて滅んでいきました。ソロモン王が建てたエルサレムの神殿の祭壇で、侵略者は異教の神を礼拝し、城壁は崩され、人々は遠くバビロンで捕囚となりました。 自分たちは失敗した。自分たちは見捨てられた。もう、神にも故郷にも帰れない。絶望して嘆く人々。主はインマヌエルの神を預言したイザヤを通し、力強く

主の祝福と贖いを預言しました。それが52章です。 

 破壊されかつての栄光を失ったエルサレム。シオンの都と呼ばれたこの街に、主は叫ばれました。エルサレムよ力を 輝く衣をまとえ。立ち上がり、戦いの中でかぶったちりを払い落とせ。戦いに負けて占領されたエルサレムよ、あなたは奴隷となっているが買い戻される。あなたの首の縄目を解け。あなたの神が王となりシオンに帰ってくる。

歓声をあげて喜び迎えよ。主があなたを回復して下さる。 イザヤの預言は、エルサレムと神殿の回復だけに留まりません。主はその力強い御手で救いをすべての人、すべての国の人々に明らかにされます。すべての人に救いの業が及ぶのです。

 ヨセフが受け止めた、マリアと自分に与えられた使命。そしてマリアの胎内で育って行く

救い主であり、真の王としてダビデの王座を受け継ぐ方。

その子を「主は救い:イエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

主イエスが「わたしの民」と呼ぶ者はユダヤの民だけではない。

そこまで、ヨセフが理解していたか、信じていたか。それはわかりません。

やがてヨセフは、マリアにも「主があなたと共に居られます」という言葉が与えられたことを知ります。それはマリアとの離縁を考えた時、ヨセフが基準とした律法やユダヤ人の習慣では辿り着けない、主の御心によるものです。

 人には目に見えるもの、自分が経験した事、学んだ事を理解する力が与えられています。

けれども、それを超える目に見えないもの、経験することのできない遠い過去や未来は理解できません。人には限界があります。神のように天地万物の創造される前から、私たちの

命を超える未来まで見ることはできません。

ヘブライ人への手紙11章「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する

ことです」。主イエス・キリストの救いの福音を受け入れる時、自分の生活や考え方とは

別次元の、価値観を受け入れるために私たちは信仰によって「跳ぶ」経験をします。

私たちは「跳ぶ」。それは信仰によって新しい道に私たちの道が繋がる経験です。

信じ、受け入れる。その時、主が共に居て下さる。主と共に歩む力を与えて下さるのです。

「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」ヨセフは信仰によって「跳び」迎え入れました。

夢から覚めたヨセフが考えた以上の恵みが、いま、異邦の民と呼ばれる人々の1人である、

私たちにも届いています。そして主イエスは私たちをも、

ご自分の民、ご自分の救いを受ける者として招き、迎え入れて下さいます。

お祈りいたします。