ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は皇帝アウグストゥス:オクタヴィアヌスの時代になっていました。皇帝は当時の全世界=地中海沿岸のローマ帝国全領土に人口調査を命じました。国内の民族、種族の人口や勢力範囲を知るため。内乱の危険を予測し、将来の戦争のために兵隊となる人材の資料を作るためでした。 全領土の人々は、この命令に応じました。自分の故郷を離れて生活する者たちは、故郷に帰り、登録しました。
皇帝は人口調査をする。自分の力自分の国の力を確かめたいからです。皇帝は権力の座に昇りつめた。だからこそ自分の立場を失いたくない。恐れているのです。 全領土の国民は、いそいで民族の故郷に帰りました。皇帝の命令に従うためだけならば登録する町は今働いている町でも構わないはずです。でも誰もがそれぞれの故郷:本籍地に帰って登録しようと大移動しました。たとえばヨセフの故郷はベツレヘム。イスラエルの伝説の王ダビデの故郷です。有名な人物が生まれた土地の出身者たちは、自分はあの英雄の子孫、という誇りを持っています。老人も子供も旅に出ました。民族の誇りアイデンティティーが旅に駆り立てました。
イエス・キリストはごく普通の比較的貧しい家の子として生まれました。救い主と共に旅したマリアとヨセフは馬小屋に泊まり、飼い葉桶に赤ん坊を寝かせ礼拝し祝いました。
クリスマスの語源はラテン語「クリストゥス・ミサ」の略、Christ(キリスト)+mas(礼拝)
イエスの誕生を祝って礼拝する。それがクリスマスです。
「主なる神があなたと共に居られる」と神からの約束を受けた夫婦と、神の子だけ。
これが世界で祝われた最初のクリスマスです。
野原の羊飼いたちは驚き、恐れました。普段、羊を守るためにオオカミさえも恐れずに闘う羊飼いです。彼ら遊牧民は、自分や家族の登録を考えさえせず普段通り羊の群れの番をしていたのです。突然現れた天使と天の軍勢。あたりは神の栄光の輝きで真昼のように明るく照らされたのです。この出来事を福音書に書いたルカは、ローマの習慣を知っていました。
ローマ皇帝の位を継ぐ王子が生まれると、詩人や広報官が宮殿の大広間でその喜びの知らせを詩や歌にして皆に告げる。詩人の皇帝礼賛の言葉に続けて、宮廷の楽隊や詠唱者達が歌うのです。ルカは当時の様子を取材して、神の子の誕生を知らせる天使たちが、
まるで王子の誕生を告げる吟遊詩人のようだと思ったのでしょう。宮廷ではなく野原で、
詩人ではなく天使の群れが、皇帝ではなく神の独り子の誕生を、皇帝ではなく羊飼いたちに向って、賛美したのです。「民全体に与えられる大きな喜び」
静かな夜の野原にいた羊飼いたちは、天使の歌声に包まれました。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」
イザヤは8章の終わりで、イエスが活動されるガリラヤに神の栄光が現れる、と預言しました。イザヤ書はイスラエルの滅亡によって捕囚となり苦しむ人々に語られた預言の書です。敵の国に囚われていた人々の暗い心にひそむ死の闇とそれを打ち消す光。9章はこの光の
預言で始まっています。
聖書の時代も今も、人は闇を恐れます。神が天地を創造した時、そこは闇の中でした。
創世記1章、混沌とした闇の中に、神は光を造り出しました。光によって闇と光を分け、
海と大地を、植物・動物・動くものを、そして人間を創造されました。
神が人を創ったのは、愛するため。創造した全てのものを、神と共に喜び楽しむためです。
天使が羊飼いたちに告げたのも「民全体に与えられる大きな喜び」でした。
与えられたものをただ喜ぶ。それが人には難しい事なのです。
タダほど高いものはない と言われます。良いものをもらうと私たちはくれた人の意図を知ろうとしてしまいます。旧約聖書コヘレトの言葉に
「神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考えをしたがる」とあります。
イザヤの時代も、人々は目に見えない神よりも目に見える人や財産に頼り、平和と安心を
戦いとろうとしました。結果、イスラエルはバビロン捕囚となり大切な故郷から引き離され苦しみの時を経験したのです。
イザヤ9章は、神が人々に喜び楽しみを与え、戦いを終わらせ、その苦しみの記憶を焼き尽くすと預言します。神の前に正義が行われ平和が絶えることの無い王国。
その国のしるしとして与えられるのが「ひとりのみどりご。ひとりの男の子」です。
みどりご 現代では使われない言葉です。イエスさまは緑色の赤ちゃんなの?という質問をした教会学校生徒もいるそうです。みどりごを漢字にすると嬰児(えいじ)
生まれてから1~2歳までの幼児のことです。
なぜ神はみどりごを世に送り、平和の王国を建てると約束されるのでしょう。
皇帝は自分の立場に安心できず人口調査をしました。
人々は先祖の伝説によって自分の価値を守るため故郷に急ぎました。
私たちはお互いの言葉や顔色をうかがい、複雑に考えてしまいます。
神が全世界・全宇宙を創り喜び楽しめと言われるのに、与えられるものを疑い、光から離れていく人間。素直に喜ばず複雑に考えたがる人間。神はなぜ人間を造ったのでしょう。
なぜ関わろう、繋がろう、恵を与えるのでしょう。
イザヤ書9章6節に「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」とあります。熱意。
神は豊かで熱い愛の神なのです。出エジプト記34章に
「主はその名を熱情といい、熱情の神である」とあります。
天の軍勢は「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と
賛美しました。永遠の存在である神が、あえて最も弱い赤ん坊、ただ愛して受け入れられなければ死んでしまう、弱い赤ん坊として世に生れたのです。その印象とは正反対の呼び名が書かれています。「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」
この方が十字架でご自分の命を捨て私たちの罪:光から離れてしまう人を癒し清め赦す
救い主イエス・キリストです。主はお生まれになりました。
馬小屋の中で礼拝したマリアとヨセフのように、天使の歌を喜んで走り出した羊飼いのように、私たちも喜び賛美しましょう。神が与えて下さった救いと恵みを楽しみましょう。
クリスマスおめでとうございます。
お祈りいたします。
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