聖書にはイエスの語ったいろいろな例え話が載っています。きょうの箇所では例えの意味を丁寧に説明しています。イエスが教えておられるのは、神の国、神様の国です。
なぜ例えを用いて話すのかという質問にイエスは「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、立ち帰って赦されることがない」ためと答えます。イエス様は、
分かってほしいと思わないの? でもイエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言います。解って欲しい。けれど聞く耳を持たない人はいる。なぜ、聞いても解らないのでしょう。
イエスは神とともに居られた方で神の国を知る方です。神は私たち人間が見ることもお声を聞くこともできない方。旧約聖書以来、神を見た者は死ななくてはならないと言われています。イエスが神の国を見たままに話しても、私たちには理解できなかったでしょう。
イエスはとても沢山の例え話をされました。目に見えない神を、私たちが身近に感じられるように。神の国を私たちが見たことのある、知っているものに例えて話されました。
聞いても解らなかったことを、理解できるようにする。例えは翻訳すること:自分の国の言葉を他の国の言葉で言いかえることに似ています。
例える、という言葉は新約聖書のギリシア語ではパラボレー。アンテナのパラボラと同じで「自分を寄せる」「側に寄る」「側に投げる」「投射する」等の意味があります。
船に乗ったイエスはガリラヤ湖の岸に集まった人々に4つの種の例え話をされました。
まるで漁師が網を湖に投げるように。投げた網で湖の魚を全部 採ることはできません。
聞く人に届くのか届かないのか。イエスは福音の例え話を私たちの側に投げました。
種を受け止めた4種類の地面を、イエスは話を聞く人の心の喩えとして教えました。
聞く時、自分はどの地面だろう?石だらけなのか、いばらか、と考えませんでしたか?
例え話を聞いて考える時、その人の心の中で、福音は確実に育っています。育つということは、聞いた皆さんは確かに良い土地だ、ということです。
植物を育てる人には、良い土地以外に落ち育たない種は無駄です。仕事上では損失です。
でも良い土地に落ちた種は30倍・60倍・100倍。種の時の3/4の損を補って余りある収穫が得られる。種を蒔いた人、福音を伝えてゆく人の働きは無駄になりません。
豊かな収穫の時がやがて来るのです。
サムエル記下12章で、神に愛された王ダビデのところに、遣わされた預言者ナタンは、
彼らしくないことをします。ナタンは神の言葉を明瞭で簡潔な言葉で伝える人です。
ダビデが神殿を建てる計画を持った時も、神が語られた言葉をそのまま伝えたのです。
ダビデ王は生涯で沢山、神を賛美する詩をつくり、聖書の詩編150篇の大半がダビデの
作品です。詩編の中で彼はありとあらゆるものに喩えて詠っています。神の恵み、神の御業、また自分の心やイスラエルと敵国との関係など。ダビデの詩編によって私たちはこの世の色々なものの内に神の働きを見る彼の心の言葉やセンスによって、より深く親しく神を
知ることができます。
そのダビデに、ナタンは例え話をしました。まるで、一般の国民が王に陳情に来た時のように、豊かで無慈悲な男と彼によって残酷な目に会った貧しい男の話を王にしたのです。
ダビデの生涯最大の罪。長年自分に仕えてきた兵の留守中にヘト人ウリヤの妻を奪い、それを隠すため、ウリヤを敵の攻撃で戦死させる命令を将軍に出したのです。
王の罪を指摘することは、預言者ナタンの命にも危険な事です。でも、ナタンは人としてではなく、神の代理人としてダビデの前に居ました。主はダビデが自分の罪を認めたことを受け入れ、ダビデ自身に死の裁きが降ることはありませんでした。
ナタンの話を聞いたダビデの激怒。多くの説教者たちはこのダビデの怒りを、彼のもう一つの嘘と考えています。多様な言葉で詩編を著したダビデが例えの真意を理解できないはずが
無い。ダビデはイエスの言葉で言う「聞く耳」を与えられている者です。
神はナタンに例え話をさせた。
王として大きな責任を任されているダビデに、主は自分の罪を客観的に裁く機会を与え、
自己判断・自己反省の機会を与えたのです。
イエスは4つの種の話の後にも、いくつも例え話をしました。語られた話によって、私たちはイエスが例えに用いたものだけでなく、身の回りにある色々なものを通し神を知るようになります。イエスの例え話によって、神は私たちにご自分を寄せ、側に寄って福音の
ボール、恵みのボールをいくつも投げていて下さるのです。
4つの種の話を聞いて、4種類の地面のどれが自分?と思った時のように、
考えて見て下さい。恵みを受けるための信仰の筋肉トレーニングです。
例え話を理解していくと、自分でも身の回りのいろいろなものの中に、神の恵みを見つけることができるようになっていきます。神は造られた全てのものによって私たちに教えていて下さいます。すべての神に造られたものが、神を語り出すのです。
ダビデは罪を告白したあと、救いを求めて詩編51篇を詠みました。ダビデは聞く耳を与えられているからこそ、自分の罪を深く自覚し神の救いを願う祈りに導かれたのです。
きょうの御言葉に選んだ、マルコによる福音書4章11節12節。その逆説的な言い方。
自分の目で見ても、自分の耳で聞いても、考えることのない人にとって神の国は永遠に謎、
秘密のままなのです。神がどんなに多くのものの中に、神の国の秘密を隠されているのか。
隠された神の愛の福音がどんな風に語られるのか、心の耳を澄まし聞き取る者でありたいと思います。
お祈りいたします。
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