シュネムの婦人は裕福で、家族からも親戚からも信頼されていて、特に不満はないと思っての暮らし。今をおだやかに過ごせればよい。そんな毎日でした。 中風の男はたぶん病気になる前からの親しい友人に助けられ、病気で不自由な体でもどうにか生活していました。不自由な体での自活は現代も厳しいですが、この時代は自活は考えられない。それに、病気は罪の裁き、という考えが一般的な時代。こんなに不自由になるほど自分は罪深いのだ。
以前のような元気な毎日はもう望めない、と、諦めの中に彼はいました。
シュネムの婦人も中風の男も、自分から変化を求めていませんでした。自宅付近に預言者エリシャがしばしば立ち寄るようになり、荒野の民の常識として婦人が旅人をもてなしたのはごく普通の事。誰かの思惑や計画があったわけではありません。
中風の男が居たカファルナウムが、イエスの活動拠点だったことは、男にも友人たちにも
幸運なことでした。彼らはイエスに会うためにその町に住んだわけではありません。
婦人はただ、やってくる預言者をもてなしただけ。シュネムの婦人に神の人のために特別な部屋やベッドなどを用意できる財力と企画力があっただけ。
病気の男にはたまたま親しい友人4人が居て、彼らが「イエスが来ている」といううわさを聞き逃さなかっただけ。そこに神の計画があったかどうか、彼らの与り知らぬことでした。
預言者がもてなしを受けることは当時、よくあることでした。エリシャは婦人に、王や軍の関係者に預言者から口添えが必要なのか?と聞いています。宗教指導者が持つ信用や発言力を使いたい人は多く、もてなしの裏には大抵、思惑や意図がありました。しかし、
シュネムの婦人は与えても見返りを求めない、珍しい人でした。
従者ゲハジは彼女には子が無く夫も高齢、という情報を持ち帰りました。
子を産み育て 未来に繋げる希望。それがこの夫婦に無いものでした。
「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」エリシャからの祝福の言葉を聞いた彼女は、思いがけず激しい怒りの言葉で答えました。「いいえ神の人よ、私を欺かないで下さい」新改訳では「偽りを言わないで」、リビングバイブルでは「からかわないで」と訳され、
NIV英語聖書では「間違った導きを(ミスリード)しないで」。
子を話題にされた途端の、彼女の豹変ぶり。この問題が彼女には如何に大きく、悩み
深く、悲しいものだったかが伺い知れます。
子どものいない夫婦。現代でもこの問題で深く悩み、傷ついている人は沢山います。
特に旧約の時代、子の無い夫婦は神からの祝福が無いと見られます。努力して働き守っている家も財産も、いずれ人手に渡ってしまう。長い長い祈りと悩みの年月、自分たちは神から見捨てられたという苦しみを諦めでやり過ごし、触れずに来たのでしょう。
エリシャの預言の通り、夫婦は思いがけず与えられた男の子を、大切に育てます。
しかし与えられた祝福の子は、あっという間に突然の病で死んでしまうのです。
彼女は泣く時間すらとらずに支度し、エリシャに会いに自分から出かけるのです。
先ほどお読みいただいた箇所から、シュネムの婦人がどのように行動したかを読むことが出来ます。彼女は、神の人の足にすがりつきました。
彼女の自分の苦しみは、神が強いて与えた恵みを奪い取られた、強いられた苦しみです。
彼女は自分の苦しみを吐き出し、エリシャと「生きている神」にすがりつきます。
預言が実現し、子を身籠った時から、彼女は神が与える命の試練を全身全霊で受け止めて来ました。それまで子を与えなかったのも、子を与えて育てて下さるのも、命の主の御業。彼女は自分たちの人生に直接介入された神に向き合って来ました。
子の死という現実からも彼女は逃げませんでした。この苦しみに答えを下さるのは神、と
信じているから、彼女は宣言するのです。「わたしは決してあなたを離れません」
儀式を行っても子が死んでいることに気づかないゲハジ。エリシャは婦人の前で従者を
叱ることはなく、子と預言者二人の場所で主に祈ります。口と手と目、その口で主に祈り、母に話しかけ、その手で母と共に働き、その目で主が与えて下さる恵みと御業を見ることができる者として。神はこの子にエリシャを通して命を吹き込みました。
「わたしが子供を求めたことがありましょうか。欺かないで下さい」と言った彼女の、
「思いがけず生まれた子」は死にました。主はその子を死から呼び戻し、神の力で生きる者として改めて、彼女は子を与えられたのです。
「あなたの子を受け取りなさい」 与えられた子は、命の主が彼女と共に居て下さる、
という力強い約束の証です。神に祝福されないと言われてきた夫婦の意味も、彼女自身の命の意味も新たにされました。そしてシュネムの婦人は、彼女の人生に介入して来て下さる神に信頼し、今度こそ、この子の母、という神から与えられた役割を受け入れました。
4人の友人が他人の家の屋根を掘り開け、中風で寝たきりの男をつり降ろした。
彼は穴が開いた天井から降り注ぐ光の中、その家の中の人々とイエスに見下ろされました。
彼を縛り付け囚われていたのは病と諦めでした。
イエスが言った「子よ、あなたの罪は赦される」には、律法学者だけでなく彼も驚きます。律法学者が心の中でイエスを冒涜者と罵ったように、男もイエスの権威を疑いました。
イエスは彼らの心の声に応えた「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」は、彼の心に響きました。 起き上がった彼の足元に寝床があります。先ほどまで自分を支え、自宅からこの家へ、天井から床へと彼を運んだ床を彼は担ぎ、歩き出しました。
シュネムの婦人が知ったのは、神が自分の人生にも介入して下さる、ということ。
命も死も、創造し司っておられるのは神です。
中風を患っていた男を歩かせた力は、命と希望で道を開く神の力です。
神の子が権威を持って語る御言葉の力には、病も罪の呪いも解決する力があります。
シュネムの婦人にとっての子どもの誕生という課題も、癒された男にとっての病と不自由も、助け解決して下さる神への信仰を得るために与えられた道でした。
ほんとうに必要なものは何か。それを知らせるために、
主は私たちの人生に介入して下さいます。私たちには乗り越える方法もわからない課題にも、主は道を与え、信仰に導いて下さいます。
お祈りいたします。
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