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「償うため同じものに」

 

 なぜキリストは世に来られたのか。何のために人として私たちの住む地上に誕生されたのか。ヘブライ人への手紙はその目的について、当然の大前提として、多くの子らを栄光へと導くため。人を聖なるものとするため。そして 死の恐怖のため一生涯奴隷の状態にあった者たちを解放するため、と言っています。救い主が人間と同じように、血液の流れている
生きた肉体を持つ者となり人間として私たちと同じようにこの世に生れたのは、この目的のためだ、と言うのです。
 赤ちゃんは弱く無防備な存在。でも周囲の物音や話しかける人の声を聞き、反応し真似て覚え、話すこと生活することができるようになっていきます。自分を無条件で受け止め、
世話してくれる人から、多くのことを学びます。小さい子どもがいる所では大人は自分の
言動に注意する必要があります。周りの人の言葉や行動を何でも真似してしまいますから。
「やってみせ 言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かじ」と言った人がいます。私たちは本で読むよりも人から多くを学ぶものです。信頼し、安心して話のできる人の言葉を、私たちは素直に受け取り身に付けます。
私たちは本来、神に近く親しい者として造られました。最初の人アダムは、主なる神が
彼のために「助け手」を造って下さることを喜んで、動物たちに名前をつけたのです。
救い主は私たちの罪を完全に償う捧げものとなるために、私たちと同じ人となられました。
アダムが始めは神のもとに居たように、人は人であることが罪なのではありません。
人は神に愛される者として造られた者。その人が、神の愛と導きを拒んだこと神から離れて神との本来の関係から離れたことが罪なのです。
 ヘブライ人への手紙は8章で、きょうお読みいただいたエレミヤ書31章を引用します。
エレミヤはこの箇所で人々が重荷と感じていた、それまでの常識はもう過去になる、と主に示されています。29節の「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」は、日本で言う
「因果応報:先祖の起こした問題が子孫に影響する」ことを現わしています。
イスラエルとユダの人々はずっと、自分たちの祖国イスラエル王国は分裂しそれぞれ捕囚となったのは出エジプト以来の先祖が犯した罪のためだ、と考えて来ました。列王記・歴代誌に書かれた王国の歴史は、神への反逆の歴史と言っても過言ではありません。北イスラエルには神の御心に適う王は1人も現れませんでした。南ユダも、神に忠実な王が立てられていた時期の方が短いのです。
エレミヤに御心を示された神は、やがてイスラエルの家と神が新しい契約を結ぶ日が来る、と言われました。 出エジプトの時、神はモーセに石の板に刻んだ十戒:律法を授けました。新しい契約では、神は神の民一人一人の心に律法を刻み付ける、と言われました。
モーセの律法の石板は、神が神の指で山から切り出し、律法を刻み付けたものでした。
あの石板と同じように、神がご自身で人の心に神の御心を刻みつける。もう人々は自分の先祖の罪のせいではなく、自分自身の罪のために神の前に立たされる時が来る。
この預言を与えられたエレミヤには、神が一体 どのような方法でご自身を人間一人一人にお示しになるのか知らされませんでした。なぜ「主を知れ」と教えることが無くなるのか。
新約聖書=新しい契約の書を与えられた私たちは、十字架で死なれたイエス・キリストが
復活し人々に特別な約束をしたことを知っています。エルサレムで約束の助け主を待て、と言われた弟子たちが祈っていた時、彼らに炎のように降られた聖なる神の霊が、一人一人に留まった、という使徒言行録の記述を知っています。
確かに神は自ら私たち一人一人に聖霊を住まわせて下さる。
神の御心を私たちが知るように、神ご自身が人間に宿る、というエレミヤにとっても私たちにとっても想定外の奇跡が、私たちの生きるこの世で実際に起きているのです。
創り主は自分の傍を離れた人間のためにイエス・キリストを地上に送りました。弱い、
受け入れられなければ死んでしまう小さな赤ちゃんとして。イエスは人として地上で育ち、病気もケガも空腹も疲れも、すべて私たちと同じように経験されました。
私たちは旧約聖書の王たちと比べても、悪い意味で遜色ないほど罪深い時代にいます。
どうしたら騙されず損をせずにいられるのか。電話や受け取る手紙やメールの内容が信じて良いものか嘘か。痛い目に会うたび、私たちは自分の判断にも不安を持つようになります。
神は人を愛して下さる。神は私たちに苦難と戦え、とは言いません。
苦しみに抵抗できる力を与えて勝たせるのでも、応援するのでも、そばに居てずっと観察している のでもありません。神の愛は、の中で私たちと共に苦難を経験し私たちと共に生きて下さる。自ら人となって地上に来た方は、私たちの苦しみを実体験しながら導く方。
この方が「人と同じになる」神、「人と同じように苦しむ」神、救い出す神なのです。
ヘブライ人への手紙は2章10節に、救い主は苦しみを通して完全な者とされた、とあります。この「完全」には「正しい(ぴったりした)サイズ」という意味と「正確に機能する」という意味があります。完全な者とされた方は、私たち一人一人が犯した罪に正確に
作用する償いを果たされました。そして、罪から解放した私たちを聖なるものとし、神の国に迎えるために、必要な導き手として聖霊を約束されたのです。
不安と不信が溢れる世に生きる私たちには、救い主が勝ち取った「完全」が必要です。
救い主の聖なる霊は私たちの内に住んで、丁度良い時宜にかなった=タイミングもぴったりの助けを与えて下さいます。共に苦しんで下さるキリストが約束された聖霊は、今も私たちと共に生き、私たちと共に苦しみの中を歩いて下さいます。
「完全」に人として私たちを理解して下さる方を信頼し、共に生きてゆきましょう。
聖霊が共に居られる、ということは私たちの罪は完全に償われ赦された、ということ。
私たちのために苦しまれたキリストは、その手とわき腹に傷跡を持つ生きている神です。
お祈りいたします。