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「強い人」

 

 ナザレから来たイエスと言う人が癒しの奇跡を起こした。生れつき体が不自由な人や治らない病を癒した。病の汚れで町から追い出された人が癒され戻って来た。悪霊に憑りつかれ苦しむ人から悪霊が出て行った。イエスがガリラヤで神の国の良い知らせを語り始めると、その評判はどんどん広まりました。イエスの奇跡を見たい人、お話を聞きたい人、苦しみや病から癒されたい人やその家族がイエスの所に集まってきました。
 イエスが帰った家とは、ガリラヤのペトロやアンデレの家でしょう。1章でシモン・ペトロの妻の母の病を癒したイエスは、ペトロの家を拠点にしていました。
この家に集まる群衆の中には、イエスの活動を危険と考える律法学者やファリサイ派ユダヤ人、そしてイエスの母や兄弟、親族もいました。彼らは聞えて来たうわさに驚きました。
バブテスマのヨハネから洗礼を受けたイエスはそれまでの家族との暮らしから離れ、
福音を語ること、人々に神の御心を伝えることのために生活し始めました。
現代でも、うわさは私たちの生活に波風を立て不安を煽るものです。イエスの生き方や
うわさに驚いた故郷の人々は、イエスを取り押さえようとしました。
 イエスのところに人々が集まる様子に、律法学者たちは危機感を持ちました。
マルコによる福音書はイエスが安息日にも病を癒し、汚れた霊に憑りつかれた人から霊を追い出したこと、弟子たちが空腹のため、安息日に麦の穂を摘んで食べたと書いています。
ファリサイ派ユダヤ人は安息日の神のための時間に、刈入れと脱穀 と言っても、手で摘まんで手のひらで揉んだだけですが、労働を弟子たちが自分のためにした、と責めました。が、イエスは安息日の規定は人を責めるためではなく、人を神のもとで休ませるためにあると教えたのです。
弱り、悩む人々に寄り添うイエスが宣言した罪の赦しを、律法学者たちはイエスが神を
冒涜している、と考えました。そして癒され神を賛美する人々を見て、その癒しが聖霊ではなく悪霊の業だ、と言って人々をイエスから引き離そうとしたのです。
イエスは、内輪もめをすれば滅び立ち行かなくなることはサタンでも知っている、と言い、人の心を家に喩えて、まず強い人を縛り上げなければ、家に押し入ることはできない、と、話されました。そして、聖霊を冒涜する者は赦されず永遠に罪の責めを負う、と。
聖霊は神の霊です。三位一体の神の霊は、イエスの霊です。
聖霊の業をサタンの業だ、と言う。それは神のお働き、イエスのお働きのすべてを否定することです。最も強い神のみ業を全否定する。聖霊を冒涜しその業すべてを否定した者は、
自分自身が救われる可能性を全否定した事になるのです。
 人々の不信仰を、エレミヤは、水に喩えています。長い 出エジプトの旅で神の民となったはずのイスラエル。彼らの王は神の力ではなく、大きい外国の力で国を守ろうとしました。
同盟を結んだ国の宗教がイスラエルに導入され、その神々の儀式を行ってその国と親しくなれば自分たちは滅びない、と、出エジプトの神を捨てたイスラエル。彼らの国は滅びた。
彼らイスラエルの命の源にできる水は、エジプトのナイルの水でも、アッシリアの大河ユーフラテスの水でも無かったことは証明されてしまいました。
 イスラエルがなぜ、滅びたのか。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない」それなのに。
イスラエルは自ら、自分たちの国に共に居て下さる真の神、真に強い方を追い出し、
自分たちを守らない偶像の神、命の源にはならない壊れた水のたまらない水溜を頼ったのです。彼らをエジプトから救い出した神こそ、豊かに命の水の溢れる水源なのです。
 イスラエルにとって、自分たちの国に流れるヨルダン川よりも大河ナイルやユーフラテスは魅力的に見えたのでしょう。彼らが頼った「強い」国アッシリアはやがてバビロニアに滅ぼされ、そのバビロニアもペルシャに滅ぼされました。
イエスを取り押さえに来た故郷の人たちのように、私たちのまわりでも、私たちがイエス・キリストの十字架への信仰を持って行動することに驚く人、拒否反応を起こす人はあります。「変わったね」とか、「違うね」と言われたことは私にもあります。
日曜日の過ごし方は教会生活によって、全く変わります。
御言葉を知り、聖書を学び、私たちは友人や家族と自分が、笑うところ喜ぶところが違うことに気づくことがあるでしょう。私たちの価値観が、神中心キリスト中心に変わったのです。キリストに与えられた価値観によって、私たちは神の御業に気づくようになります。
 イエスのもとに集まって来た人々は、病を癒された人が歩き出すのを見ました。
悪霊を追い出していただいた人が、それまで悪霊が語らせていた汚れた言葉ではなく、
神への賛美を捧げるのを見て、共に喜びました。
その働きの強さを恐れて否定するのではなく、受け入れて喜んだのです。
イエスが聖霊によって、最も強い人として彼らの魂の家を守る者となって下さった。
イエスは私たちの内にも、最も強い 神の霊を住まわせて下さいます。
この強い 聖霊は、生ける水の源である神の霊です。
私たちを内から守る強い神の霊は、私たちの内で豊かな水源となり、
私たちに命の水を溢れさせて下さいます。
感謝して、お祈りいたします。