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「練られた命」

 

 イエスが弟子たちに聞いた「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という質問に、
ペトロは堂々と遠慮なく「あなたはメシアです」と答えました。
メシア これは救い主という意味だけでなく、油注がれた者 神から選ばれた真の王。
ペトロは自分の信仰を告白しました。他の福音書でも、彼の告白はイエスに喜ばれます。
しかしこの後 彼はイエスから思いがけない厳しい言葉でお叱りを受けました。
 イエスは弟子たちにご自身の受難と復活の予告を教え始め、弟子たちは動揺しました。
ペトロはこの話を皆に聞かせたくない。年若い師匠が暴言を吐くのを止めようと、イエスを脇に引き寄せペトロはいさめました。「ラビ そんなことを言ってはいけません」
イエスが彼を激しく𠮟ったのはこの時です。
「サタン、引き下がれ。」なぜイエスはこんなに強い言葉で叱ったのでしょう。
イエスがはっきり教え始めたのは最重要事項でした。そしてその教えは、サタンにとって
最も都合の悪い事だったのです。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
十字架は、罪を犯した者が架かるのです。罪の無い神の子イエスが十字架に架かる。
神の子がご自分は持たない罪の性質を代わって痛み苦しむ。
それは本来、裁かれるはずの人間の命の身代金として神の子の命が支払われる。
その計画が遂行されることをイエスはペトロたちに予告しました。弟子たちはショックを受け、ペトロはイエスを止めようとしました。でも、この時この教えを彼らに聞かせたくなかったのは、人類に罪からの救いが与えられると知らせたくないサタン。ペトロたち弟子が
イエスを失うことを恐れて悲しむ心に、私たち人間の滅びを望む者が働いたのです。
主イエスはペトロを叱り、ペトロの内にいたサタンに出ていくよう命じました。
真面目に真心で動いたペトロにイエスは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。
 私たちは毎年 受難節の箇所を学ぶ時、この時のペトロが感じたようなショックや
恐れを感じているでしょうか。 大切な自分たちの師匠=ラビが苦しみに会う。それも、
ユダヤ人たちの代表 長老・祭司長・律法学者がイエスを排斥する。民の指導者である
彼らに、イエスが殺される、ですと? 弟子たちには思っても見ない、恐ろしい、できれば耳をふさぎたい予告でした。それは私たちが毎年 聖金曜日として記念し感謝する救いの業の予告なのです。 主イエスの受難と死と復活を否定する。それは全人類の救いを否定することです。主イエスの受難を止めるのは、神が世の初めから進めて来られた、人類の救いの計画を止めることです。主イエスが苦しんで下さらなかったら、私たちの救いも神の国への道も、永遠の命もありえないのです。
 イザヤは48章でイスラエルにユダの人々に、鋭い皮肉を語る神の言葉を預言しました。
神はイスラエルを「まこともなく恵みの業も行わないのに、万軍の主に依りすがる者」と
言われます。旧約聖書のイスラエルの歴史。そこで私たちは彼らが如何に神に対し忠実だったか、よりも一体、何回神に逆らい、神の言いつけに逆らったか、その記録に出会います。
創世記で約束の地を与えられたイスラエルはエジプトに移住し、後に奴隷となって苦しみ、導き出され約束の地に戻り土地を与えられます。彼らは神に自分たちの王を欲しいと願いますが、エルサレムに神殿を建てたソロモンの後、国は分裂し神に立ち帰らない彼らの国は敗戦し滅びました。そして約束の地も神殿も失った彼らは捕囚の地で律法の書を
再編集し、律法によって自分たちの神の民としての本質を守ろうとしました。
 彼らがこの世のもの、この世の法に頼るのをやめ、神に立ち帰るよう、神は彼らを試練に会わせましたが、彼らは「鉄の首筋、青銅の額」と言われるほど頑固でした。
  ユダの民は約束の地に帰らせて下さいと神に願い続けました。王を下さいと神に祈りました。自分たちの神に従う方法を教えて下さいと願い、律法を与えられました。神は彼らの祈りを聞き入れて下さいました。 彼らは神が与えた土地や王、律法に頼る者となり、
神が遣わした約束の救い主イエスに従いませんでした。イスラエルは主に自分たちの望みをかなえていただきましたが、彼らは神が彼らに与えたものを、彼らの次の偶像にしてしまったのです。
主イエスはペトロや弟子たち、そして群衆を呼び寄せて、こう言われました。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」 
 弟子たちは自分の判断・価値観・願いを主に捧げ、主に与えられる聖霊を待ち、神に導かれて福音を語りました。ペトロがイエスに「あなたは、メシアです」と言った後、イエスはご自分のことを誰にも話すな、と言われました。
十字架と復活の後、主イエスは助け主として聖霊を送ることを約束した上で、「全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい」と言われました。 
十字架で磔にされる者は、十字架を立てるゴルゴタの丘まで自分自身が架かる十字架を担いで登ります。十字架を負って従う。それは自分の問題、自分の責任、自分の性質を自覚すること。自分を滅ぼす罪は自分自身が持っている、と自覚し認めることです。
イザヤを通して、神は私たちを火をもって練る、と。苦しみの炉で私たちを試みる、と言われました。陶器師の手の中で練られた土は、火の中で土の性質を焼き払われ、器として用いられます。
私たちは主イエスの十字架で一度、死んだ者です。私たちは主が命を懸けて救った者。
主が苦しみ練り上げた新しい命が私たちに与えられました。主と共に死んだ者は、復活の主と共に神に与えられた新しい命を生きる者。主の御業のための器として、新しい力を与えられた者です。
お祈りいたします。