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「神との契約」

 

 イエスの弟子たちは、よくイエスに隠れて議論をしていました。自分たちはイエスに選ばれた弟子だから、他の人々より偉い。では弟子の中では誰がもっとも偉いのか。
神の子イエスがこの世に神の国を建てて下さったら、自分たちはイエスに真っ先に従ったのだから、神の国で高い地位に着くことが出来るに違いない、と彼らは考えていたのです。
そんな彼らに「何を議論していた?」とお聞きになったイエスは、黙ってしまった弟子たちを呼び寄せ言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
 神の国に入るために、イエスはとても厳しいことを話されました。まずイエスは弟子たちのまん中に子供を招き入れ、子供の1人を受け入れる者はイエスを、ひいてはイエスを遣わした神を受け入れるということ。 また、たとえイエスの弟子でない者でもイエスの名で神の業を行う者や、イエスにも弟子たちにも逆らわない者は、イエスの味方だと教えました。
ここでイエスが言われた「小さな者」とは、子供のことだけではありません。
弱く力のない者。貧しく生きることが困難な者。心に力が無くすぐ弱ってしまう者。
信仰を持って日が浅い者。そしてイエスにも聖書にも興味がありながら、近づく勇気が出ない者も、「小さな者」です。…私たちは皆「小さな者」なのではないでしょうか。
そして、イエスは言われたのです。もし小さな者の1人をつまづかせるなら、その人は海に投げ込まれてしまった方がはるかによい、と。 つまづく。それは心がくじけて、前に進めなくなること。信仰につまづく、とは、神に近づく力を失って、離れてしまうこと。
私たちの中に、自分は誰もつまづかせることは無い、と言える人がいるでしょうか。
 イエスが、神の国に入れないくらいなら、切り取って捨ててしまいなさい、と言ったものは、大切な絶対必要なものばかり。片手も、片足も、片目も、切り取って捨てるどころか、失うことが恐ろしいと感じるものばかりです。 これは実際に自分の体を傷つけるよう言うのではなく、こんなに大切なものさえも切り捨てるほどの厳しさを持って、罪からつまづきから離れなさい、という強調された言葉なのです。
 出エジプト記のきょうの箇所で教えられているのは、神に相応しくあるための律法です。
「~してはならない」「~しなくてはならない」どの法も、神と人の関係の根源的な問題が指摘されています。まず、神をののしってはならない。民の代表者を呪ってはならない。それは全ての源である方を否定し、自分の民族の滅びを ひいては自分の滅び つまり永遠の死を望むことに繋がってしまうからです。神から頂いた収穫。神から与えられた子供たち。
初子(ういご)を捧げるとは、その家に与えられた子孫繁栄の祝福を喜ぶと共に、生まれてくる子供たちすべてへの神の祝福に感謝することです。
 共に生きる人間たちに対して、うわさや偽証によって不利益を与えることは民全体に争いの種、不信の種を蒔くことです。たとえその意見に賛成する人が多くても、また賛成した方が利益を得る見込みがあっても不正は悪なのです。律法の書は私たちに、常に神の前に聖い心で立てる者で居られるか否かを問います。貧しい人、罪なき人、正しい人の判決を曲げることを禁じた法に、主イエスの十字架前夜、違反した者たちがいました。
あの夜のイエスへの判決を下した者たちを23章の6節7節が裁くのです。
 いま、世界中でおきている紛争によって、多くの人が移民となり難民となっています。
律法は寄留者を虐げることを禁じます。なぜなら、イスラエルはエジプトの地で寄留者であり、さらに先祖アブラハムもイサクも寄留の民でした。
私たちは自分がいま、自分の家があり居場所があることでこの法を軽んじてはいけません。
私たち主イエスの道を歩む信仰者たちも、寄留者だからです。私たちは主イエスの霊と共に旅する者。神の国に迎え入れられるまでは、私たちも旅人。天に故郷を与えられた者として、神から与えられた弱さを担い合う者であるべきです。
 イエスは、自分自身の内に塩を持て、と教えられました。化学者から牧師になった方からお聞きしたのですが、塩は化学式でNaCl 塩=塩化ナトリウムに、塩素とナトリウム以外の要素が加わると、毒物や劇物になる。塩味をつけることも、肉や魚の腐敗を防ぐことも、野菜の水分を絞ることもできない物質になってしまうのだそうです。砂糖には代替品はあります。でもイエスが「何によって塩に味をつけるのか」と言われたように塩は唯一無二のものなのです。
イエスは神が与えられた私たちの性質を塩に例えました。人は皆、火で塩味を付けられる。この火が何を表すのか、主の復活を知っている私たちは聖霊の炎を思い出します。
弟子たちはイエスによって選ばれた自分たちを、特別な者と考えました。でも彼らは
イエスの言う「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」を実行するには、
自分が一番になりたがる者、周囲の弱い者に気づかず、受け入れられない者。イエスの言葉を自分たちだけで独占して、イエスの味方になる人を増やすことのできない者でした。
主イエスは彼らを、そして私たちを受け入れ、私たちに心を配り、つまづいた者を癒して下さいました。そして、身代わりとなって罪と言う重く大きな石臼を抱えて、
海の深みよりももっと深い、地獄で、私たちの罪を完全に癒して下さったのです。
 主イエスの受難を心から感謝致します。
救い主なる神の子イエス・キリストが自らを十字架で奉げて下さいました。
この贖いの捧げものによって、私たちは聖なる神と再契約することができたのです。
私たちはキリストの血で神と契約した者。唯一無二の救い主が送って下さった火で、
清い塩味を付けていただいた者です。
お祈りいたします。