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「主の杯」

 

 エルサレムに行く。それはとても晴れがましい楽しいことだと、以前の弟子たちなら考えたでしょう。エルサレムには神殿があります。ユダヤ人も異邦人も、神を礼拝する人々が
集まって来ます。 けれど今、弟子たちは緊張し恐れています。エルサレムには祭司長や
律法学者、ユダヤ人の長老たちも集まっているのです。  弟子たちはこれまでも今回も、イエスに予告されました。「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」エルサレムで恐ろしいことが起きるらしい。
その恐れは弟子に選ばれた12人だけでなく、イエスと共に旅をしてきた人たちにも広がっていました。  彼らはイエスが進んで行く旅の目的を知りません。彼らはそこでイエスが何をするか知りません。旅を続けるのは、イエスについて行きたいから。
先生が行くのなら、私たちも行く、という信仰による行動でした。
 そんな雰囲気の中で、ヤコブとヨハネが動きました。漁師ゼペタイの子、イエスから
雷の子:ボアネルゲスと呼ばれた短気な激情型の兄弟は、イエスに「何をしてほしいのか」
と聞かれ「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願いました。マタイは福音書で、彼らの母親も同じように彼らがイエスの
王国で偉くなることを願う、ステージママのような姿を書いています。
自分の願いを口に出したのはゼペタイ家の人々だけ。でもほかの弟子たちは彼ら兄弟に腹を立てました。彼らも考えていたことに大差は無かったのでしょう。
彼らは何を聞いていたのでしょう。彼らはエルサレム行を恐れていたはず。
「人の子」これは救い主を意味する称号の一つ。メシア=油注がれた者と言うとイスラエルの王もそう呼ばれましたので、人々に政治的なリーダーの印象を与えます。
イエスはダニエル書7章から、永遠の権威を神から受けた者の称号である「人の子」と
ご自分を表されたのです。しかし弟子たちはイエスの権威に、自分たちユダヤ人を異邦人の手から解放する救い主としての力を期待しました。だからヤコブとヨハネも、「栄光をお受けになる時」のため前もってお願いしたのです。
イエスが彼らを弟子とした時「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。あなたたちに永遠の命を与えようとか、神の国に入ることができる等の条件をつけませんでした。弟子たちの方は、特にヤコブとヨハネは、自分たちの将来を約束して下さるなら、主よあなたに従います、と条件を付けたようなものです。
 ゼペタイ家の兄弟は父や母も聖書に出た、珍しく聖書に記録の多い弟子です。 ヤコブは使徒言行録12章に、ヘロデ王の迫害で12弟子で最初の殉教者となったことが書かれています。ヨハネは一番長生きした弟子の伝承があるヨハネによる福音書や黙示録を書いた人。イエスの十字架のもとにただ一人、残った弟子です。彼らは確かにイエスと共にイエスの受難を目撃し、イエス従うからこそ迫害の時代の真中で苦しむ生涯を生きました。その点で、彼らはイエスの飲む杯を飲み、イエスが受けた死のバプテスマを受けたと言えるでしょう。 でも、彼らはイエスが栄光を受けた時、右と左にはいません。右と左には二人の強盗。
イエスが十字架で人類すべての身代金を払い、贖いの業の完成の時共に居たのは死刑囚。
その一人は十字架の上でイエスを罪の無い方と告白し、パラダイスに入る約束を得ました。弟子たちより先に神の国に迎え入れられる者をお選びになったのは、イエスでなく神です。
 哀歌1章2章にはシオン=エルサレムが戦いの中で破壊され陥落した様子があります。
3章は滅びた都に住むイスラエルの民を、一人の男性として表しています。彼は 苦しい、自分には希望は無いと呻きます。その苦しみを与えたのは主だ。主なる神が自分を怒りの杖で打ち叩き、自分の魂は平和を失って沈み込んでいると告白しています。彼は主が自分を
追い立て、肉体的にも社会的にも苦悩と欠乏しかない状態だと言い続けます。
 それでも彼は、自分が主なる神の目の前にいることを知っています。体の痛みや疲労、 欠乏の中で自分の体に失望し、民は自分を嘲って敵にまわっても、まるでヨブ記のヨブのように、十字架上で苦しみ叫ぶイエスのように、主は自分から離れ無い方だと知っています。
主を忘れて楽になろう、とは考えません。彼は苦しんでいる。それは彼が生きている、ということです。命を与える主が彼と共にいる、ということです。
22節「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」ここを新改訳は
「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ」と訳します。
彼は主に打たれました。しかし、滅ぼされてはいません。彼は苦しみました。しかし、主は
彼と共に居ます。 イスラエルは苦しみの中で育てられました。彼らが幾度も国土を失い、迫害され続けた歴史を私たちは見せられています。彼らは滅びていません。
聖書は彼らを通して私たちを教えます。私たちが何者であるかは、究極、関係ないのです。私たちを造ったのは主です。私たちを生かすのは主です。私たちを選んだのは主です。
私たちを守るのは主です。私たちに救い主を遣わし救い出したのは主です。
 イエスは弟子たちに何度も「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられました。イエスご自身、王として君臨するために遣わされたのではありません。「人の子は仕えられるためではなく
仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」
イエスは神が定めたイエスのための杯を飲み、十字架でイエスは最も低い者と共に死ぬことによって栄光を現しました。
私たちは主イエスが十字架で私たちを罪から救い出し神の子として下さる、という喜びの
約束を与えられています。けれど、それは私たちに救いの条件や前提となる契約として
与えられているのではありません。地上で私たちは苦しみ悲しみ、悩むでしょう。
神が私たちに与えたのは、生かされている者として神に向って生きる命です。イエス・キリストが人として地上で生きていたように、すべての人の僕として生きる。
その役割を、その杯を受けて生きる私たちと主は常に共に居て下さるのです。
お祈りいたします。