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「信じる幸い」

 

 その土地がどんなところか?イスラエルの各部族から選ばれた偵察隊はカナンの様子を
探りに行きました。住民の人数は?彼らは強いか弱いか?よい土地か?住民はどうやって暮らしているのか?週報の説教要旨に載せたぶどうを運ぶ偵察隊の挿絵を御覧下さい。
ひと房(エシュコル)運ぶのに男性2人がかり。荒野を旅したイスラエルの民には夢のようなカナンの豊かな実りは、乳と蜜の流れる地と表現されます。偵察隊に加わったヨシュアとカレブの二人は喜びと希望を持ち「断然上っていくべきです」と民に進言しました。
 しかし偵察隊の残りの10人は反対しました。住民の体格の大きさ、そして町を囲む城壁の堅固さに恐れを成したのです。カナンに入りその住民と戦い、勝たなくては、イスラエルがここに住むことはできません。「無理だ。彼らは我々より強い」と言った10人は、自分たちが見たカナンの人々をアナク人の子孫、と言いました。アナク人とは伝説の英雄や豪傑たちのこと。ノアの時代に居た、とされる天使と人間の間に生れた、ネフィリムの子孫です。偵察隊が日本人だったら「あの町には鬼がいました!」と言うところでしょうか。
 民はカレブよりも10人のおびえている偵察隊の言葉を信じてしまいました。彼らは10人が知らせた情報に絶望して、約束の地を目の前にしながら引き返しました。
民数記14章26節以降で、神はモーセにイスラエルがこの後の40年間荒野を彷徨う運命を語られました。自分たちが見たものにおびえ、神の力も神のご計画も疑い信じようとしなかった民は、彼らに悪い情報を伝えた10人の偵察隊と共に荒野で死にました。しかし
40年後、民がカナンに入る時までヨシュアとカレブは生き残りました。
彼らは約束の地に自分と子孫のための土地を与えられました。
 きょうのヨハネによる福音書は「疑り深いトマスの話」として知られています。
イエスは復活された後40日間、地上のあちこちで弟子たちに会って語られました。
復活された日の夕方、弟子たちのいた部屋にイエスは入って来られました。マルコが復活したイエスが焼いた魚を食べた、と書いた日です。そこにトマスはいませんでした。
なぜか間が悪く、たまたま、思いがけず、その時に限ってトマスはいませんでした。
トマスは、弟子たちが喜んで興奮しているところに戻って来ました。
確かに主だ!私たちは主を見た!と彼らは喜んでいました。マルコが書いたように、はじめは彼らもイエスを亡霊だ!と恐れていたのです。トマスが戻る前に、弟子たちはイエスの
復活に確信を持つようになりました。仲間たちとトマスの心の温度差は明らかです。
彼らはイエスの手と脇腹に十字架で傷ついた傷跡を確認しました。興奮した仲間たちが口々に(とてもユダヤ人らしく)主イエスの傷跡について話すのを聞いて、
トマスは意地になってしまって。気分を害しおへそが曲がってしまって。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」
と、有名な言葉で不満と疑問をぶつけました。
 次にイエスが来て下さるまで8日=1週間後、イエスは今回も現れ「平安があるように」
と言われました。 いつもの挨拶。「みんな、落ち着いて」の意味もあるでしょう。
そして今回、イエスはトマスに向き合い、彼に向って言われたのです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」
 私が神学校で旧約聖書の学びをしていた時、教授の説明に、こう言ったことがあります。「ああ、なるほど。それなら解りました」 すると、教授は;昨年1月に亡くなられた
森本雄三牧師ですが:「解っちゃだめなんだよ。解っちゃったら信仰、要らないじゃない」と仰いました。 なるほど、と思いました。 トマスは見なければ信じない、と言いました。見ることができるなら、触って確かめられるなら、それは信仰ではなく事実確認です。
信じられない時、納得できない時、私たちは信仰より事実確認を求めがちです。
ヨハネは31節:週報の今週の御言葉の箇所で「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と書きました。 これらのこと ヨハネは福音書全体について、
書きましたが、これは聖書全体についても当てはまる言葉です。
聖書が書かれたのは、読む者すべてがイエスは神の子 救い主であると信じるためです。
そして、その信仰によって神から命を受けるためです。
 神は私たちに命を与え、この世に生れさせ、この世の時間の中に置かれました。
この世の中で、私たちは恐ろしく残酷な現実にも出会いますが、考えられないほど素晴らしい経験も与えられます。
カナンの地で、堅固な城壁に囲まれた町を見た偵察隊。彼らはその町に住む人々が、
自分たちイスラエル人と比べて、はるかに体の大きい、強そうな人々だと見て絶望し、諦めてしまい、荒野で死に滅びました。しかし、ヨシュアとカレブは目には見えない神の力と
知恵を信じ、神に期待していました。エジプトから自分たちを救った神は生きておられる。
海を開いて、イスラエルを導いた神は自分たちを見捨てることは無い。信仰と希望を失わなかった彼らは、命の主に子孫へと続く将来を与えられました。 民が絶望し死に至った荒野の40年は、カレブたちには約束の地に続く希望と命の道でした。
悲惨な現実に出会った時 絶望し滅びの道を行くか、神が共にいる日々を信じるか。
「見ないのに信じる人は、幸いである」
トマスの不満も、疑いも、不信仰だと言われる発言も、すべて聖書に書かれ、用いられています。すべての人が「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」
信仰によって与えられる希望には、神が私たちに与えて下さったすべて、命とこの世の生涯と、そこで経験する時間の意味を、変える力があります。
お祈りいたします。