わたしは羊の門である。わたしは良い羊飼いである。イエスはユダヤ人たちの前でそう
語られました。わたしを通って入る者は救われる。羊はわたしを通って出入りし、牧草をみつける。そして、こうも言われました。わたしより前に来た者は皆、盗人であり強盗である、と。
わたしより前に来た者という言葉を、ユダヤ教指導者たちのことと解釈する考え方もありますが、このヨハネによる福音書の箇所は、きょうのエゼキエル書34章を背景に語られていると言われています。
エゼキエルは、分裂したイスラエルの南王国ユダの人々が捕囚となった頃バビロンで預言者に召されました。神はエゼキエルを通して、王国への裁き、エルサレムの陥落と破壊、
そしてユダの滅亡に関わった国々への裁きを語られ、神殿再建の幻を語られます。
34章でイスラエルの牧者たちと呼ばれているのは、イスラエルに立てられた歴代の王たちと見ることができます。
イスラエルは本来、人間の王を立てず神ご自身を王とする神権国家でした。神が民に必要な助けを与え、裁き司として士師を送り預言者を送り神の言葉を伝えました。しかし民は、周辺の国のように自分たちにも人間の王が必要だ、と主張し、王を立てることを願いました。神が選んだ王となる人物を祭司が聖別し任命する、という王の任職の儀式が定められました。王や民を宗教的に指導する祭司には聖別の油を注ぐ。
この儀式から、神が遣わした王や祭司のことを「油注がれた者」=メシア ギリシア語ではキリスト、と呼ぶようになったのです。
申命記17章に、王に関する律法の規定があります。王は民の中から神が選んだ人物を立て、外国人を王にしてはいけない。馬を増やしてはいけない。馬つまり軍事力の増強は禁じられました。また、王が多くの妻を娶る事、財産を大量に蓄えることも禁じられました。
軍事力や妻や財産よりもまず、律法を傍らに置いて生きている限り読み返し、主を畏れる事を学び律法の掟を忠実に守らなくてはならない、と、教えられています。
そうすれば王は同胞を見下し高ぶることなく、戒めから逸れることなく王位は長く続くと。
王国がまとまり治められていたのは、ソロモン王までです。ソロモンの息子の代で王国は分裂しました。申命記の王の規定は、ソロモン王の時 すでに破られていました。
ソロモン王の栄華は有名です。王国は財宝を蓄え、王は国内外から多くの妻を娶り、次第に律法から離れていきました。人間の王は油注がれ任命されますが、人の王は神が創り出した世界で神から託された王国を神の御心に従って守り、導く者であるべきでした。
エゼキエルが預言したように、王は民を養うのではなく、民によって自分自身を養おうとしました。牧者として群れを導き守るのではなく、力づくで支配するようになり、
民は 逃げ出し、他国との戦いの中でちりぢりになりました。
エゼキエルを通して、神は自らご自分の民を探し出し、導き、養うと言われました。
「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」
詩編23篇の水のほとりで憩う羊のように、よい牧場ゆたかな牧草地で、神はご自身の群れを養う。羊を養わない牧者たちから、神はご自身で群れを取り戻す、と言われました。
イエスはご自身を羊の門と言われ、わたしを通って入る者は救われる、と言われました。
この門を通って出入りする者は牧草を、命の糧をみつけます。
命を与えるのも、命を取り上げるのも、天地万物を造られた神のみ業です。
イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。父なる神から命じられたからではなく、イエスご自身の意志で、羊のために イエスの声を聞いてイエスに従うもののためにご自身の命を使うことができる。そのためにイエスは父なる神から命の管理者としての掟を受けているのです。
羊のために命を捨てる、と言われたイエスは、良い羊飼いとしてご自身の羊を知っている。そして羊もわたしを知っている、と言われました。
いまイエスを信じ従っている者たちも、これからイエスに出会いイエスに従う者たちも。
囲いの中の羊も、囲いに入っていないほかの羊も、イエスは導く。イエスに知られ、
イエスの羊である者は、囲いの内 外の区別なく、従うための力が与えられています。
羊飼いの声を、イエスの声を 聞き分け、知る力です。
神に選ばれ王として選ばれた人たちも、神の牧場の羊であったはず。飼い主の声を聞き、従う群れの1匹だったはずです。
彼らは王国の責任を負い、王国の長としての役割を与えられ、神の声を聞く努力より軍事力や経済力、そして結婚などによる親族の 人と人の繋がりで国を守ろうとしました。
落ち着いて聞く。神を待ち 神に頼るよりも 目に見える力を選んでしまいました。
馬を増やすな。蓄財するな。多くの妻を娶るな。その禁を破っただけでなく、
生きている限り律法を読み返し、主を畏れることを学ぶ、その務めを忘れました。
神の声を聞く力を捨ててしまいました。神に聞くことを疎かにした牧者に、神は群れを飼うことをやめさせる、と言われました。
神は羊に、聞く力を与えられました。羊は視力は悪いですが 耳は良いのです。
群れを養い導く方は私たちの名を呼び、私たちは主イエスのもとで1つの群れとなります。
羊は群れの中で前を行く羊の後を追って進みます。まだ主の御声を聞くことに慣れない者たちのために、いま救い主イエスに出会い、主の導きを受けている私たちは耳を澄まし、
聞き分け、後に続く者と共に進んで行かなくてはなりません。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
王たちに求められたと同じように、生きている限り御言葉を読み返し、
主を畏れることを学びましょう。
ホセア書6章3節の御言葉によって説教を閉じます。
「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」
お祈りいたします。
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