最期の晩餐の部屋からユダが出て行った。30節「 出て行った。夜であった」は、
ユダのその後と、これから始まるイエスの受難日を暗示しています。
主イエスの御苦しみを思って悲しく切なくなりますが、イエスは宣言されました
「今や人の子は栄光を受けた。神も栄光をお受けになった」と。
そして、まだ誰も、イエスの逮捕も、十字架での死と葬りも、予想すらしないこの時、
イエスは新しい掟を弟子たちに与えました。それは、イエスが弟子たちを愛したように、
あなたたちも「互いに愛し合いなさい」です。
愛する、という言葉は人間の感情を表す言葉として使われます。イエスはこの言葉を、
命令系の「愛し合いなさい」と掟とされました。 愛すると好きの違いはよく語られます。好き は、その人の心の内から湧き出る自然な感情。好きになれ、と命じて感情を動かそうとしても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。無理やりそのつもりになることも、
自然に心が動いた時と同じように心を動かすことは難しい。人でも物でも場所でも、好きになるにはそれなりの理由もあるものです。
好きの反対は嫌い。ですが 愛する の反対は嫌いではなく、無関心 です。
愛している対象をよく知らなくても、知りたくない関わりたくない、と思わないものです。好きではない。自分のタイプとも思えない。けれども、たとえようもなく 心惹かれる。
愛する という場合、「それでも」とか「にもかかわらず」のような 相反する言葉が先に
来ることがあります。愛して当然の相手だから愛すると限らない。悪い子だけど。
恰好良くないけれど。その点、好きと似ています。でも、
思いがけない相手、ちっとも好きではない相手を「愛する」努力をする。努力して近づく。すると、相手をよく知るようになり、相手への関心が生まれます。もう無関心ではいられないのです。それが人でも物でも場所でも、関心を持つこと、愛することには力が必要です。
コリントの信徒への手紙第一の13章は愛の章と呼ばれ、愛の性質の一つは、愛は決して滅びない、と書いてあります。また、ヨハネの手紙第一の4章には「神は愛です」と書かれています。愛は神。神は愛そのもの。神はその本性で私たちすべてに関心を持つ方なのです。
イエスは言われました「互いに愛し合うならば、それによって あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と。気にして関心を持って、相手の情報を集める。
あの人はそこに興味があるんだ、と皆が気づくようになる。
この「皆」には、自分自身も含まれます。ふと自分を振り返ると、神に愛され神に関心を
持っている自分に気づく。そして自分と共に、神の前に立つ人間にも、関心が向く。
それが、「互いに愛し合う」ということ なのです。
きょうの旧約の箇所にも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。
書かれているのは、どの民族・どの社会でも命じられる基本的な掟です。
収穫の時、貧しい者 弱い立場のもののために残して置きなさい。盗んではいけない。嘘はいけない。騙してはいけない。憎んではいけない。復讐してはいけない。泥棒を現行犯で捕らえられず逃げられたら。嘘かどうか見極められなければ。
現代も、サギで被害にあう人は日々、増えていて、取り戻すことは難しいと言われます。
どの掟も人と人との間で完全に禁じ、止めることは難しい場合があります。
ここでは「~しなさい」「~せねばならない」と言うたびに、「わたしはあなたたちの神、
主である」と、その掟の基礎を天地万物を造り出した神に置きます。そこに必ず神の視線、神の視点があることが、掟の根拠になっています。
なぜ「神が主である」ことが、掟の根拠になるのでしょう。もし弱い者たちが日々の食物を手に入れることができないとしたら。もし、盗んだものが罰せられず、盗られた者、
騙された者が失ったままなら。人と人家と家、国と国が憎しみ合い、復讐し合うその関係を罰し止める者が無かったら。そこには、破壊と死と滅亡につながる道しかありません。
命が、生活が失われます。人と人の関係を滅ぼすこと。社会を破滅させること。
命を司る神を無視し神が創り出したすべて:神の創造の業を無意味にする行為です。
私たち人間には、命を呼び戻す力はありません。破壊し滅ぼし、混乱と混とんの天地創造の前の状態に近づけてしまう。その行為は人類の歴史が始まって以来、今も続いています。
命を取り戻し、秩序を回復させ、人と社会を回復させる力を持っている方は神 お一人。
ローマの信徒への手紙4章に書かれた「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」以外には、私たちを回復させる方はいないのです。
すべてをやり直す力があり、すべてに責任を持って下さる方が主なる神ですから、
律法はその掟の根拠を、神である主に置いているのです。
全くの無から有を呼び出す神は、神は愛です と、告白された神です。
この方は、天地万物の創造が、まだ始まっていない時、すでに、私たちを愛して、私たちがまだ存在していない「にもかかわらず」愛して私たちを造り出し、神を見る事のできない私たちを神の象に造って創造の業の中にご自身の愛を示されたのです。
イエスは十字架前夜、救いの計画の最後の幕が上がると同時に「互いに愛し合いなさい」と私たちに命じられました。なぜ、愛するのか。なぜ、すべての人、神が創り出したすべてのものに関心を持つのか。 それは、神が私たちを 救い出して下さったから。
神に造られた私たちが、神に関心を持たず、神を苦しめた「にもかかわらず」十字架の
犠牲を払って、私たちを永遠と言う神の時に招き入れて下さったのです。
私たちは、自分では何一つ、造り出すことも回復することもできない、それなのに、
神がそんな私たちを、これまでも 今も これからも、愛していて下さるから。
神が愛するから、
私たちは神を愛し、互いを愛する その力を持つことができるのです。
お祈りいたします。
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