· 

「宝の実り」

 

 ヨハネによる福音書15章でイエスはご自身をぶどうの木だと言われました。ご自身を
ぶどうの木に喩え、父なる神を農夫に喩えました。ぶどうの木は地中深く根を張ります。
地面の下 深い所にある水に根を伸ばし、太陽の光をいっぱいに浴びてぶどうは育ちます。 日本で稲作を行う土地のように肥えた、栄養ある土地ではなく、水はけのよい石地の傾斜地でよく育ちます。日本でも山梨県のように山地で火山灰質の環境が、ぶどうには適します。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」枝に喩えられた私たちにとって、
2節や6節の「実を結ばない枝は…取り除かれる」「つながっていない人は…枯れる。…焼かれてしまう」という言葉は恐ろしく聞こえます。
イエス様のために役に立つ働きができない枝は切り取られ焼き捨てられてしまうの?
私たちは神から選別されるのでしょうか。実を結び、捨てられないために、どうしたらよいでしょう。
 イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われました。枝は幹に繋がらなければ、地面からの栄養も水も、受け取ることができません。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われたように、枯れずに育つために、実を結ぶために、枝は幹に繋がっていなければなりません。
私たちが枝としてイエスに繋がるとは。枝が幹から受ける栄養や水とは何でしょう。
「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら」とイエスは言われます。
 私たちは神と言葉で繋がっています。この世の始めから、神は私たちに語り掛けました。神は天地創造を、言によって成し遂げました。天地万物を造り出した神の言。
ヨハネは福音書の最初の章で、イエスこそ神の言であり人間を照らす光だと言いました。
ヨハネは福音書の3章「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
 神が私たちに求めているのは、離れず繋がること。ただ、幹に繋がる枝であること。
主が与えられる恵みと力を信頼し、喜び感謝するだけで良い。
それなのに、「神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考え方をしたがる」 
ぶどうの木や林檎や桃や蜜柑や梨など、日本でもよく育っている果物の木は細かい手入れが必要です。枝は頑張って葉を付け陽の光を沢山、受けようとします。けれど繁り過ぎた葉は光を遮り、風の通りを悪くします。葉に陽が当たるよう小枝を掃い、枝の間を空け、太陽の光がどの枝にも届くようにします。より栄養が届きやすい芽を残し、栄養が良い実に集中し、虫がつかないよう、幹のまわりも根が張りやすいよう、工夫するのです。
 スポーツ選手の動きには無駄が無い。天才と言われる人の脳は、リラックスしている時によく働きます。作業に集中できず、いろいろなことに気が散る時、かえって時間がかかり上手くいかない経験が、私たちにはよくあります。
農夫はぶどうの木の枝を選別し木を切り刻む、のでなく整える。
神は私たちがどうしても迷い込む迷路から救い、助け出して下さるのです。
 世界をすべて「わたしのもの」と言われる方が、彼らに求めたのは「今、もしわたしの声に聴き従い わたしの契約を守るならば」ただ、聴き、従うことでした。
出エジプト記、彼らは神がモーセを通して導かれるまま荒野に来ました。
主は彼らを、鷲の翼に乗せて連れて来た、と言われました。
 鷲は鳥の王と言われます。大きく力強いその翼は、人の目には見えないほど高く飛ぶことができます。鷲は眼も良く、高い天から地面すれすれまで一気に降りて、地面の穴から出てくる小動物を捕らえます。鷲の眼のように、神は高い天から地上の私たちを見ています。
人の動きも必要も知る方が、私たちに助けを与えます。導き出した民を追うエジプトの軍隊は海の中に消えました。民が空腹だ、喉が渇いたと叫ぶたび、マナを与え、
岩から泉を流れ出させました。主なる神はイスラエルの人々に告げるようモーセに命じた
言葉、イスラエルの人々に語るべき言葉として与えた言葉は、
あなたたちは祭司の王国となる。あなたたちは聖なる国民となる、という言葉でした。
「今、もしわたしの声に聴き従い わたしの契約を守るならば」ただ、聴き、従うならば、
彼らが、神が存在することを表す者となる。彼らが神が生きて働いておられることを示す。祭司の王国。神に仕え、神のために生きる者たちの国。聖い神の性質を表す国民となる。
あなたたちはすべての民の間にあって、あなたたちはわたしの宝の民となる。
ただ聞き従い、神の契約を守るならば。
 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」
枝と幹のようにしっかり主イエスに繋がり、イエスの言葉、聖書の言葉で私たちが生きる。
私たちの思いと願いに、神の思いが現れるように、次第に、少しづつ私たちの歩みが主に
近づいて行く時、私たちを通して人々に神の言葉と思いが伝わって行くのです。
 イエスは言われました。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」
ぶどうの木の枝のように、私たちはイエスの言葉によって整えられます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」生き生きと育ったぶどうの木の豊かな実り。
それは枝がきちんと整えられ、手入れが行き届いている証です。
私たちが神から恵みを受け、生き生きと生きる。その生き方そのものが神が働かれていることを示す。神がいることを示す宝の民が、神の栄光の現れとなるのです。
お祈りいたします。