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「悲しみは喜びに」

 

 何となく不安。何となく嫌な感じ。私たちも正体のつかめない不安をあちこちで感じることがあります。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、しばらくすると、わたしを見るようになる」弟子たちはイエスが語る言葉が理解できず恐れていました。
イエスの「父のもとに帰る」「あなたたちから離れる時が来る」という言葉は、これまで弟子たちがイエスを攻撃する祭司や律法学者、ファリサイ派の人達を思い出させ、不安でした。「自分たちはイエス様に見捨てられてしまう?イエスはいなくなってしまう?」
 正体の見えない不安は、私たちの周りに沢山あります。
若い世代は年金の保障が無いかもしれない。この後も景気は良くならないかもしれない。
コロナはいつまで続くのか。自分の生活は不健康なのかも。自分は知らないうちに騙され、損をしているのかもしれない。どの不安も実体が有るか無いか、それさえわかりません。
たいていの不安の元はうわさだったりします。その対策や情報も沢山あって、どれが正しいのかどうすれば満足できるか、その保証はあるのか。悩みは尽きません。
 不安をつきつめると、命の問題と人への信頼の問題に突き当たります。命をどう守るか。安心して生活するにはどうしたら。  命の始まりも終わりも、人の心の中も、私たちには見えない。わからない。そこに不安があるのです。
年齢を重ねると、人生で経験することも増え、経験から語れることも増えていきます。
若い人、未経験の人が気づかないこと、見えていないことを知っている人。その人の言葉は重みや深い意味が感じられます。でも、「わたしの時はこうだった」「たぶん、あなたもこうしたら良いと思う」。残念ながら、人として私たちが言える事は憶測の域を出ません。
 「わたしは去っていく」「あなたがたはわたしを見なくなる」という悲しい言葉も、「またわたしを見るようになる」という将来についても、イエスの言葉には「たぶん」や「かもしれない」はありません。断言します。「あなたがたは喜びで満たされる」イエスには私たちには見えない「未来」も「人の心の中」も見えている、知っていること。解っていること。
父なる神の約束も計画も、イエスは理解して語っているのです。
 出エジプト記18章で、モーセは妻と子供たちを守っていてくれた妻の父、
舅のエテロと再会します。エテロはミディアン人。昔モーセが罪を犯し、エジプトから逃げた先で出会った妻ツィポラの父、祭司です。モーセは荒野でエテロの羊を放牧していた時、
主なる神に出会い、エジプトからイスラエルの民を導き出す役割を与えられました。
モーセは舅を信頼して、エジプトを出るまで、荒野の旅を始めてから、民と自分が経験したことをすべて、エテロに話しました。このエテロは、きょうの箇所のすぐ後で、モーセが民の指導者として行う政治を見て、モーセと民の両方が疲れや不満を抱えていることを見抜いて助言し問題解決してくれた人です。民もモーセも、エジプトから出てくることだけで精一杯で、国としても民族としても体制が整っていませんでした。エテロには、祭司として 荒野で過ごした長い時がありました。それが彼にイスラエルの民が神と人の関係をどう造るか、モーセがどんな心構えでいるべきか、助言できる経験となったのです。
 エテロはモーセが話す旅の記憶の中に、神の力強い御手の働きを聞き取りました。突然、荒野から現れたモーセを、今、民が信頼するようになったこと。エジプトが自分の国の奴隷を、どんな試練によって出て行かせたのか。民がマナや岩から流れる水で飢えも渇きもなく旅ができたこと。そして、追って来たエジプトの軍勢が、海の中に消えたこと。
 神はエテロに、モーセやイスラエルの民の経験を通してご自身を現わして下さり、彼は
モーセの前でイスラエルの神への賛美を捧げたのです。「主をたたえよ…主はエジプト人の
もとから民を救い出された。今、わたしは知った 彼らがイスラエルに向かって 高慢に
ふるまったときにも 主はすべての神々にまさって偉大であったことを」
 私たちが人生で経験を積んでも、人間が持つ不安のすべてを解決する 完全な約束を掴むことはできません。けれど、モーセがエテロに経験を話し、その思いでがエテロに神の力を知り、褒め称える力を与えました。私たち一人一人と共に、神は居られます。
私たちが人生で経験したことを分かち合う時、神は語る人やその人の経験を通して、私たちにご自身がそこにいることを知らせて下さいます。人を通して神が働かれるのです。
 私たちには明日はわからない。事件や事故、病気や挫折。私たちはこれまでの経験を通して、人生には思いがけない不幸や難問があることを知ります。驚きや悲しみを経験するから、私たちは見えない未来に良くないことが起きるかもしれない、と、最悪の事態に備えようとします。弟子たちもイエスが「去る」と語った未来を恐れました。
でも、イエスが語ったのは希望の言葉です。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
 イエスが断言した未来が来ています。私たちが経験した主の導きを毎日一つづつ思い出してみましょう。世の終わりまで共にいる、と約束されたのはイエス。弟子たちにあなたがたの「悲しみは喜びに変わる」と断言されたイエスなのです。
 一人一人の経験は小さなものかもしれません。私たちは毎日の悩みや恐れが きっと明日も続く。悪い予想を立てて、がっかりしないよう自分を守ろうとします。
でも、将来を見る方 これからを約束して下さる方が、はっきりと見た未来を語って下さったのです。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」
これまで私たちを導いて下さった主が用意して下さった時を、私たちは生きています。
希望を持ってエテロのように賛美しましょう。
「主はすべての神々にまさって偉大である」と。
お祈りいたします。