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「聖なるものとするために」

 

 イエスは最後の晩餐の締めくくりに、17章の祈りを捧げました。受難の十字架が迫っていると、イエスは知っていました。「世の罪を取り除く神の小羊」として世に来たイエス。

イエスが 全人類の罪の身代わりとして裁かれて死んで、人としてのイエスが陰府に堕とされ滅びを受ける。イエスがこの世に生れる前から決まっている人への神の愛の御計画。

イエスはこの時、ご自分がその役割を受ける決意と、弟子たちをはじめとする「イエスの言葉を受け入れた人々」が、救われて神のものとなることを、もう決まった事 神が約束した、完成された、として 喜びをもって祈っておられます。イエスはこの祈りで、十字架を越えた先の、神がイエスによって行われる計画について神に求めておられるのです。

 イエスは神の子としての栄光を再び取り戻すことを神に願いました。それは、世界がまだ創造されていないこの世の始め、イエスが父なる神と共に持っていた力。神だけが持つ命を与える力。イエスを信じた人々に、永遠の命を与える力を取り戻すことです。

 イエスを信じた人々のことを、神が「世から選び出してイエスに与えた人々」

イエスを通して神の言葉を受け入れた人々と イエスは呼びました。

イエスが神のもとから来た方だ、と信じた人々。神のものであり、神がイエスに与えられたもの。この人たちをイエスは世に残る者、しかし世に属していない者、と呼んでいます。

世に属していないとは、どういうことでしょう。

 イエスが十字架の先のことを祈っている、とお話ししました。イエスの十字架の死は、

私たち人間の罪を贖うための死です。イエスは神から遣わされた神の子であり神ですが、

人となられました。何度も言ってしまいますが、この方の死は私たち人間の身代わりで死にました。本来は私たち人間が自分の罪のために、死んで滅びる運命だった。

その運命を神の子が身代わり。私たち神を信じイエスの言葉に従う者たちの命は神の子の命を代金に買い取られた命です。 神の子イエスは、もともと神の国に属している。

と、いうことで、神の国に属している方の身代わりで生きて、滅びを免れた私たちを、

イエスはこの世に属していない、と言われました。それで、イエスは私たち ご自身を信じる者たちを、ご自分と同じ神の子として神の国に属している者たち、と呼ばれたのです。

 神がイエスの十字架によって、私たちを世から選び出して下さいました。

イエスが世、と呼ぶ私たちが生きている世界はその中で生きる人も物もすべて、天地創造から今まで一続きの神が造られた時の中にあります。この世にあるものは、命あるものには生まれてから死ぬまでの寿命があり、物にはやがて壊れて消える。存在に制限があります。

イザヤ書45章は主なる神の言葉として言っています。「人々は知るようになる。わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない」と。

青銅の扉はイスラエルが捕囚となったバビロンのこと。青銅。鉄。武器の材料となる金属は、神の民の国を攻め戦った国々と、その国の神々を表します。

人も国も神がこの世に造り出した被造物。名を呼ぶ、とは存在させること。私たち人に

与えられた生きる力も、知恵も、すべて神からのものです。山々を平に。主なる神の前に

上下は無い。貴い卑しい等 役割を決めるのは神であす。どちらも神に造られた神の作品。

神がすべてを造られたのですから、神が存在しないとしたら、「すべて」は存在することもできないのです。神は私たちすべてに先立つ方。

神が無い世界、は、存在しない。無いのです。神が存在しすべてが始まったのです。

 世に属していないものを、世が憎む。神によって造られたのに、神に属さないものは、

やがて寿命が来て、壊れ廃れ、空しく消え滅びて行きます。

永遠の神の国に属すイエス・キリストは、攻撃されました。この世に憎まれ、世はイエスを認めませんでした。イエスを信じた者たちも、世は憎んだ、と主は言われました。

やがて空しく滅び去る者たちには、永遠という神に繋がる命が理解できなかったのです。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も

滅びないで、永遠の命をえるためである」とヨハネによる福音書3章16節にあります。

神の言葉であるイエス・キリストを受け入れたかどうか。十字架と復活は、私たちが永遠の命を受けるため、と本当に知っているかどうか。

イエスこそ神の子、わたしの救い主です、と言うかどうか。

それが世に属しているか、神に属しているかを決めるのです。 

イエスは、私たちをこの世から引き離しご自分と共に神の国で、神に守られて過ごすことではなく、神に守られてこの世に生きることを望まれました。

イエスが私たちを世に残して行かれるから。世に属していない私たちが、イエスと離れてこの世に残るから。イエスの側に立つ者になったことで、私たちが世に憎まれると知っていて。私たちを悪いものから守って下さい、と、イエスは神に願って下さいました。

 もし、イエスを信じて神に救われた者たちが、すぐそのまま神の国に行ってしまい、この世からいなくなるとしたら、この世は。この世に居て、まだ神の国もイエスの福音も知らない人々は、やがて滅びる運命の中に置き去りです。イエスの十字架が、自分の罪の身代わりであり、世のすべての人が神の国に招かれている、と、まだ知らない人々が、滅びるまま。そんなことをイエスは、神は、望まないのです。

 イエスはご自身が父なる神と一つであるように、私たち人間も一つとなるよう、神に願いました。イエスが世を離れる時、神の霊が世に残る私たちと共に居ることを神に願って下さいました。私たちを神の国に招いて下さるイエスと、私たちはいま、聖霊によって、聖なる霊によって、繋がっています。

私たちは聖霊なる神と共に居ることで、神の側に立ち、聖なる存在に近づいて行くことができます。世に残された者として、神の愛と恵みを伝えて行く役割のために、力を願い与えられて生きることができるのです。

お祈りいたします。