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「共同相続人として」

 

 聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これは聖書が教える最大の戒めです。

主なる神がご自分の民を奴隷の中から呼び出し、神の民として生きる者となってから、

主の言葉が語られる時 必ず、この言葉で語り掛けられました。

聞け、イスラエルよ。シェマ イズラエル。すると民は神の言葉に緊張し、耳を傾けました。  

申命記のこの箇所は、神の民が従う最も基本の戒めが書かれています。聞け。愛しなさい。

なぜなら、あなたの神、主は熱情の神だから。この「熱情の神」と訳された言葉は、

他の訳では「ねたむ神」、英語でも「jealous」ジェラシー 嫉妬する神、と書かれています。

嫉妬、ねたみと聞くと暗い意地の悪い粘着質の性質に聞こえます。

でも純粋でまっすぐな感情なのです。

小さな子供は大好きな親や兄弟と離れると、嫌がって泣きわめきます。子供が親から離れず、どこまでもついてくる。大好きで、どうしても心惹かれる。神を子供に例えるのは違うと感じる方もあるでしょう。むしろ神の愛は子供の心以上に純粋で無垢で強いのです。

新約聖書ヤコブの手紙4章に「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ」と書いてあります。

きょうの箇所に「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」ともあります。聖書では 名とは、その存在や性質や、能力や性能のすべてを表します。

神は私たち神を信じ従う者たちに、神に聞き、神を愛し、神の御名によって誓う者 つまり

神に、自分の全存在 命も力も生活も すべての根拠を置く者であれ、と命じられたのです。

 さきほど 神は内に住まわせた霊を妬むほどに人を愛しておられる、とお話ししました。

パウロはローマの信徒への手紙で神の霊の働きを教えます。ペンテコステに降られた聖霊は

私たちの内に住まわれた。聖霊なる神は、イエスを死者の中から復活させた方の霊です。

神の子イエスを死から命へとよみがえらせた霊、つまり神の子の霊が私たちに宿り、私たちは神の子とさせていただきました。だから私たちは神様に向って「アッバ」と言える、と。

アッバとはユダヤ人の子供たちの幼児語です。「パパ」や「とと」や「とーちゃん」のような、親しく遠慮のない言い方です。 神の子なのです。子なのです。

 神聖ローマ帝国の王フリードリッヒ2世が行った実験の有名な逸話があります。

王は生まれたばかりの赤ん坊を集め、人間がいつから言葉を話すようになるのかを探ろうとしました。その子たちの目を見るな。笑いかけるな。話しかけるな。赤ちゃんたちはきちんと世話され、ミルクも与えられました。でも言葉もコミュニケーションも愛情も受けることができず死んでしまった。聖路加病院の院長であった日野原重明医師は著作この逸話を引用し、

人は生きるため空気と水と食物だけでなくコミュニケーションが、愛情が必要と書きました。

 私たち人は、生きるために愛を必要とします。しかし、真に愛である神の豊かで大きな愛を受け取る力の無い者です。こんな私たちを、主なる神は愛して独り子イエスを十字架に架け、

さらにご自身の霊によって、神の国の相続人として下さいました。

私たちは神の子とされ、キリストと共に神の相続人となりました。キリストの霊によって、

キリストと共にこの世で生きる苦しみを味わいます。そして共に、神の栄光を受ける者です。

栄光を受ける。これは人として理解できない次元のことで、何のことかと思ってしまいます。

この栄光を、神の国で受ける力を、パウロは相続財産と呼びました。

では、相続人とはどういうことか。相続権を持つ、とは、いずれその財産を自分のものにする、ということ。今はまだ、財産を持ってはいないのですが、権利は持っているのが相続人。

やがて財産を手に入れる人です。キリストと共に神の子として神の国に入る。

それは入ることができる権利を得ただけではないのです。

神の国をキリストと共に、私たちの国として手に入れる。神の国に遊びに行く、とか、ちょっと泊まらせてもらうのではなく、国民として自分の国にする権利を、私たちは頂いたのです。

 私たちは神の言葉を聞きます。でも、残念ながら聞いても忘れてしまうのが私たちです。

ですから申命記は私たちに「心に留め、子供たちに繰り返し教え、家でも道でも寝ても起きても語り聞かせなさい」「しるしとして自分の手にも、額にも、家の戸口や柱にも書き記せ」

と教えます。しつこいでしょうか。つまり、習慣にして身に付けなさい と言うのです。

現代でも厳格なユダヤ教徒の家では玄関や柱に律法を収めた小箱が取り付けられています。

 舞台でも映像でも、俳優は自分の演技が自然に見えるよう、その役として

自然に行動できるまで、繰り返し役作りをします。 スポーツ選手は自分がその競技を反射的にできるよう、動きを身に着けます。考えなくてもできるように練習するのです。

習慣にして自然にできる。そうなると競技も演技も さらに工夫して動けます。そして、

余裕と落ち着きが出て来ます。 習慣は、能力以上にできるようになる第1歩なのです。

主なる神が人を愛するほど、大きく激しい愛、熱く強い愛を人は持つことができません。

私たちの主なる神は、熱情の神ねたむ神です。もし人がご自身への愛と信仰を失って他の神に向うなら、その情熱は燃え上がり、愛する者を焼き滅ぼすほどに強い愛なのです。

世の初めから、私たち人類は 神が注がれるほども愛を 神にも人にも持つことができない

まま、神と私たちとの間の隔たりは埋めることができないままでした。

主なる神のその大いなる愛が、私たち人のその愛の無さが、イエス・キリストを十字架に架けて殺したのです。

 きょうは三位一体の主日。神によって創造された私たちは、キリストの十字架と復活によって、罪赦され永遠の神の国に繋がる命を得ました。そして聖霊が、私たちに神の子として、

キリストと共同の相続人として、神の国に至る希望を与えて下さったのです。

三位一体の神は私たちと共に居られます。希望の神と共に、私たちはこの世を旅する者です。

お祈りいたします。