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「救われるためにはどうすべきでしょう」

 

 パウロとシラスは毎日、川岸の祈り場に通っていました。フィリピはギリシア北部の港湾都市で、市場は賑わい商人も大勢いましたが、まだユダヤ人の会堂はありませんでした。

ユダヤ人は10人いたら1つ会堂を建てて共に礼拝します。パウロたちはユダヤ人の会堂で福音宣教をして来ました。会堂の無い土地でユダヤ人たちは川岸に集まって礼拝していましたから、パウロとシラスも毎日、川岸に通ってやってくる人々に福音を語っていたのです。

 彼らを毎日、追いかけて来る人がいました。占いを商売にしていた女奴隷が、自分に憑りついた占いの霊に引きずられパウロたちのストーカーになって「この人たちは神の僕で救いの道を宣べ伝えている」と叫び続けました。叫んだ内容は間違いではありませんが、悪霊に宣伝されたり占い師たちの仲間と思われたら伝道の邪魔で迷惑です。

それでパウロは悪霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言ったのです。憑りついた悪霊が離れ、女奴隷は正気に戻りました。が、奴隷の主人に訴えられ、パウロたちは捕まって町の広場で鞭で打たれました。そして打たれた傷もそのまま

足枷まではめられ、パウロとシラスは一番奥の牢で、厳重に見張られることになりました。

看守にとって、2人は不思議な囚人でした。何度も鞭打たれたのに傷の痛みを訴えもせず、騒ぎ立てることも鎖や足枷に文句も言いません。牢の中には一晩中、パウロとシラスの祈りの言葉と賛美の歌声が聞こえていました。いつになく静かな牢で、いつもなら騒ぐ他の囚人たちも、彼らの祈りや賛美を大人しく聞いています。

大地震の揺れと物音で、眠っていた看守は目を覚ましました。揺れが収まり、戸が開いているのを知った看守は、もう自分はお終いだ!と思いました。きっと囚人たちはみんな逃げてしまった。責任を果たせなかった自分は、きっと罰を受ける。その時、彼は祈っていた人の声を聞いたのです。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」パウロやシラスだけでなく囚人たちも誰一人、逃げだしてはいませんでした。看守は特別に見張りを命じられていた新しい二人の囚人の前にひれ伏しました。きょうの説教題はこの時の看守の言葉です。「救われるためにはどうすべきでしょう」

 世界保健機関WHOのマークには杖に絡まる蛇の絵があります。ギリシア神話の

アスクレピオスの杖が由来とされていますが、蛇が命を意味する印に使われている点で、

今日読んで頂いた民数記に出てくる旗竿とよく似ています。

 炎の蛇は毒蛇のことです。たいへん強い毒で、咬まれたところが火傷のように腫れ たちまち死んでしまいます。イスラエルの民が旅してきた荒野には、炎の蛇が生息していましたが、これまで被害はありませんでした。

蛇が民を襲った時、民はまたしても神とモーセに逆らって文句を言っていたのです。

 民数記20章でミリアムとアロンはそれぞれ死に、神はアロンの息子エルアザルをアロンの後継に立てました。エジプトを脱出して以来、神に遣わされた指導者モーセは兄アロンや姉ミリアムと共に民を導いて来ました。 ミリアムとアロン亡き後、神はモーセと民を守って、イスラエルの敵に勝たせて下さいました。民は新たな勝利を経験しましたが、

与えられた食物と水を不満として反抗したのです。でも今回、民は自らモーセに助けを求めました。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」 主は民に「死なない方法」を教えました。

主はモーセに命じて炎の蛇のかたちを青銅で造らせ旗竿の上の青銅の蛇を見上げれば、

蛇に咬まれた人は命を得る。 死ぬはずの人が命を与たのです。

 地震で牢の戸が開いた時、看守は自分の運命に絶望しました。彼は自分から命を捨てようとした時「皆ここにいる」という声を聞いて明かりを用意させました。看守がみつけたのはめちゃくちゃになった牢屋と、鎖も足枷も無いのに逃げずにそこにいる囚人たちでした。

看守はなぜ「救われるために」と聞いたのでしょう。彼は囚人たちと共にパウロたちの祈りと賛美を聞きました。

マルコによる福音書11章でイエスは「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」と言われました。牢で鎖に繋がれても、パウロとシラスは祈り賛美し感謝し続けました。悪霊から逃れた女奴隷のため。

共に牢に居る囚人たちのため。

そして、まだイエスの福音を知らない人々のために。

「救われるためにはどうすべきでしょう」パウロは看守に答えました。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」看守とその家族はパウロたちが主の言葉を語るのを聞き、彼らが全身に生々しい鞭の傷を負っているのを見て、

彼らが苦しみを知る者だと知ったのです。看守一家は洗礼を受け、パウロたちと共に神への信仰を与えられたことを喜び共に食事をしました。

 炎の蛇に咬まれた人々は青銅の蛇を見上げました。自分の運命に絶望していた看守は、

「わたしたちは皆ここにいる」という声に導かれ神を信じる心を与えられました。

命の危機にあったイスラエルの民はモーセを通して主に助けを求めました。

「蛇を取り除いて下さい」「救われるためにはどうすべきでしょう」

人間は死を恐れ、命の危機から抜け出す方法を求めています。

明かりの中で看守が見つけ出したのは、救われる方法を知っている人たちでした。

絶望した人たちに命の希望を伝えたのは、命の神に遣わされ神に従う指導者モーセや、

牢の中でも主に祈り賛美する人々でした。

 私たちは鞭の傷を負ってはいない。でも日々、何の苦労も無いと言うことはできません。

私たちの毎日は、炎の蛇にいつ襲われるか、恐れていたイスラエルの民と似ています。

でも、獄中のパウロとシラスのように、私たちの祈りと賛美と信仰を、主は用いられます。

信じて祈り賛美する時、私たちの目は主を仰ぎ、死ぬはずの私たちは命を得るのです。

祈りの声を絶やさず、命の主を賛美し、伝えていきましょう。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

お祈りいたします。