イエスに「途中で何を議論していたのか」と聞かれて弟子たちは黙ってしまいました。
彼ら12人はイエスに選ばれて使徒と呼ばれ、弟子たちの中で一目置かれるようになったのですが、今度は一緒に選ばれた仲間が気になりました。誰が一番 主イエスに気に入られているのか?ああだこうだ議論していた彼らに、イエスは言いました。
「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」
そして言われたのです。「わたしの名のために子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのだ。」すべての人に仕える。子供を受け入れる。小さく弱い者を受け入れる。
優しく、犠牲的精神で奉仕しなさいという勧めに見えます。でも、私の身近には小さな子供はいないし、と、自分に関係ない、で終わらせる話でしょうか?すべての人に仕えるために、自分の生活を投げ捨てて、すべての人のお手伝いをしていたら、自分が持っている仕事の責任は果たせません。イエスは何を求めておられるのでしょう?
きょうの旧約の箇所が、イエスの言葉の答えの一つを見せてくれます。イエスの弟子たちはやたらに議論していましたが、エジプトの奴隷生活から助け出されたイスラエルの民は
何度も「エジプトでの暮らしの方が良かった」「肉が食べたい、魚が食べたい、野菜が果物が…」と文句を言いました。
彼らはエジプトを脱出する時、十分な食料を持ってはいませんでした。パンが無い水が無い、と彼らが騒ぐのも、初めは命の危機を訴える切実なものでした。民数記11章では、
彼らは神からマナを与えられています。料理の工夫をしてさえいます。彼らが毎日、同じものばかり食べているのは、現代の日本で多種多様な食生活をしている私たちは、辛かろう、苦しかろうと思います。でも、彼らはマナを得ているます。命の危機は去ったのです。
約束の地を目指して、民は旅の辛さ苦しさを感じると、その不満や自分たちのイザコザのすべてをモーセに言いました。モーセは神と親しい人だから、彼が神に伝えてくれる、と
民は思っています。シナイ山でモーセが神と何日も語り合ったことを民は憶えていました。神に伝えたいことは、モーセに言えばいい。モーセに言えば、神は叶えて下さる。
民の不満はモーセに言うもの、というやり方は民の習慣でした。でも、モーセも人間です。不満がつのりました。エジプトで王女の子として育った上品で優しいモーセもとうとう、
自分の心に溜まったうっぷんを神に吐き出しました。それが11~15節です。
「なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わねばならないのですか。わたしが彼らを生んだのでしょうか。とてもこの民すべてを負うことはできません。重すぎます。 どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」
モーセが抱える責任の重さや不満のすべてが、神に向って溢れ流れ出してしました。
週報の今週の御言葉がモーセへの神の答えです。「イスラエルの長老たちのうちから、認めうる者を集めなさい。 わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。」
神はモーセの課題を解決する約束と共に、民の要求を叶える、と言われました。
神の「主の手が短いというのか」という言葉はとても印象的です。神は御業を現し、
モーセが集めた長老たちに与えたご自分の霊によって、彼らが預言する姿を見せました。
モーセの苦しみは、よく真面目な責任感がある人が、「わたしがやらなければ!」とはまり込む泥沼のような状況でした。神はモーセに、働きを担うのはモーセだけではない、と示されたのです。これまで民と一緒にモーセに文句ばかり言っていた長老たちさえも、神は預言させることがおできになる。神の働きをする力は神から与えられるのだ、とモーセは思い出し、感謝しました。 モーセの従者だったヨシュアには、長老たちがモーセの働きを汚しているように見えましたが、モーセはこの経験で心を落ち着けることができました。
神は私に責任を押し付ける方ではない。心の中に持っている不満や悲しみ、苦しみを神に打ち明ければ、受け入れて助けを下さる方なのだ、と。
主イエスは弟子たちを教えるため子供の手を取り抱き上げました。
子供の心は、すべては神の御手の中にあると信じ不満をぶちまけたモーセに似ています。
モーセも民も不満をどんどん言ったのは同じ。でも、民には神に守られている命への感謝がありません。彼らの文句は、信頼を通り越し神と神の人モーセを道具として使おうとするものでした。肉を欲しがった民は、その貪欲を31~34節で裁かれます。
不安に泣き叫ぶ小さな子供のように、モーセは責任の重圧の不安で神に叫びました。弟子たちは使徒に選ばれても自信を持つことができませんでした。
私たちは心の中に、小さな子供のような弱い、不安だらけの自分を持っています。
その弱い、子供のような心を受け入れて下さることを示すために、主イエスは弟子たちの
真ん中で子供を抱き上げました。
子供を受け入れる。それは私たちの小さく弱い性質を、愛して受け入れ助けて下さる主イエスに倣う事です。すべての人の後になり、すべての人に仕える。それは自分が持っているすべてを与えて下さった主に感謝し、改めて捧げることです。
モーセの目の前で、民の長老たちは神の霊を与えられ神の言葉を語り出しました。
神が選び出し、御力を与えて下さったから、私たちは力を持つことができ、与えられた責任を果たすことができるのです。
朝に夕に祈りを聞いていて下さる主に感謝しましょう。主は私たちに言われました。
「わたしの名のために子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのだ。」
弱さ小ささを持つ者として互いを受け入れ、すべての人を招いて下さる主に従いましょう。
お祈りいたします。
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