イエスに「善い先生」と呼びかけた彼が、いつイエスを知ったのかはわかりません。マタイが若者と言い、ルカが役人と言うこの人は旅立とうとするイエスに走り寄りました。
イエスが弟子たちに「神の国に入るには子供のようでなければ」と教えた、そのすぐあと彼は、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と聞いたのです。
イエスが答えた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟は、律法の基本です。掟を「子供の時から守って来た」という彼をイエスは優しい目で見て「天に富を積み、わたしに従いなさい」と言いました。
10章28節でペトロが言ったように、弟子たちは「わたしに従って来なさい」と言われてすぐ、家族も仕事も捨ててイエスに従いました。この若者も自分たちに加わるのだ、と見ていた弟子たちは思ったでしょう。 でも、彼は加わらず、悲しみながら立ち去りました。
財産と永遠の命とどちらが大切だろうか?「まず神の国と神の義を求めなさい」という
イエスの言葉を、彼は理解していなかったのか、と残念に思います。
イエスがまず、律法を守っているか問うたのは何故か、それをきょうの申命記の箇所から
考えてみましょう。
神の民イスラエルに神である主が求めておられることは幸いを得ること。幸せになるために、主を畏れ主のすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし魂を主に仕え、
主の戒めと掟を守りなさい、と主は言われます。尽くして
天のもの地もの、地のすべてのものを持ち、支配しておられる方は、なぜ イスラエルに律法をあたえたのでしょう?幸せになるために律法を守りなさい、と告げられる方は、なぜ
神の民が幸せになることを望んでおられるのでしょう?
それは主が民の先祖に心惹かれ、彼らを愛し彼らの子孫を選び出したから。それ以外、何の理由も無いのです。申命記7章にこうあります。「主が心引かれたのは、あなたたちが他の民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」
マルコ10章に出て来た人が自信を持って「守って来た」と言ったように、
イスラエルの民が律法に沿った生活を習慣にしてきた民族であることは知られています。
でも、聖書は「戒めと掟を守るならば」を何度も繰り返します。残念ながらイスラエルの民は「律法を完全に守った民」とは言えないことは、聖書が証ししています。それでも、
主は彼らを見捨てません。彼らは主なる神が「心惹かれて選び出した」民だから、です。
そして、パウロがガラテヤの信徒への手紙に書いたように「あなたがたは信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。あなたがたはキリストのものだとするなら…アブラハムの子孫であり、約束による相続人」です。いま、私たちはキリストの血によって、主なる神が「心惹かれて選び出した」民 に加えられているのです。
きょうの12節13節には「主を愛する」「心を尽くして仕える」という言葉が出て来ます。私が神学校で旧約聖書から学んだのは、神は救いや愛を与えるにあたって、交換条件を出したわけではない、ということです。神は決して
「あなたが主を畏れ主の道に従う」なら、あなたを「幸いを得」させよう。とは言わない。
「あなたが主の戒めと掟を守る」なら、「あなたを神の民に」してあげよう。とは言わない。
主なる神が私たちに言っておられるのは 実はこうです。
あなたが「主を愛し」て「心を尽くし魂を尽くして主に仕え」るのならば、当然、
あなたは「主の戒めと律法を守」りますよね。
あなたは「主を愛し」ているのならば、当然「寄留者を愛し」ますよね。
守れ、と命じているのではなく、主はご自身が選び出した民を見捨てない、と信じる私たちの信仰を見ておられるのです。ご自身が「心惹かれて選び出した」からこそ、主の民とされ、神の子とされた私たちがどんなに主を悲しませ、苦しめても、主なる神は責任を持って御国に招いて下さる。独り子イエスを人としてこの世に遣わしてまでも罪ある者たちを赦し、神の子として受け入れて下さる。その私たちの神への信仰を、見ておられるのです。
「心の包皮を切り捨てよ」と申命記10章16節にあります。これは割礼という神がアブラハムの時代にご自分の民に命じた、神の民となるための儀式です。当然 割礼の後はしばらく動くことができないほど、出血と痛みを伴う儀式です。
この箇所で主は神の民に言われました。あなたたちの心に割礼に例えるほどの痛みを伴っても、主に従う道を歩めと。 ヘブライ人への手紙12章4節に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」とあります。
ペテロたち弟子は家も家族も仕事も「何もかも捨てて」主イエスに従いました。
あの「永遠の命を受け継ぐ」ことを求めていた真面目な人は、財産とその責任を捨てられませんでした。すべて捨てて従う時、彼と彼が責任を持つ人々のために、働かれる神の御手を信じることができなかったのです。
弟子たちは 何もかも捨ててイエスに従いました。それは彼らがイエスを愛し、心からイエスに従いたいと願い、イエスに「心惹かれ」、主を信頼したからです。 ローマの信徒への手紙にこうあります。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」また、フィリピの信徒への手紙にはこうあります。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」
主なる神は私たちに心惹かれ私たちを愛し、私たちに主を愛する愛を与えて下さいます。
それは弟子たちが主イエスに従った時のように、私たちが心から、自ら望んで主に従い、
主の掟を守って生きる者となるため。その力は神から与えられる、神にしか与えることのできない力です。この力を与えられ、神を愛し神のみ教えに従って私たちが歩むならば、
あなたは「幸いを得る」。主がすべてを働かせて益とし、私たちは幸せになる。
再び掟を与えられた神の民は、すでに御言葉の通り空の星のように多くされた者でした。
いま、私たちが守られ導かれ、御国への旅を続ける幸いを与えられているのは、神が私たちを愛されたから。主が私たちに「心惹かれた」からなのです。
主の愛と導きに感謝し、お祈りいたします。
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