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「喜び祝え」

 

 申命記12章は荒野を旅する民に、神の民としての生活のやり方を教えています。

旅の生活から定住の生活に代わるイスラエルの民は、まず山や丘や大きな木のある場所などにある神々の礼拝場所を徹底的に破壊するよう命じられます。

出エジプトの民が入っていく約束の地カナンには沢山の神々の祭壇や彫像があり人々は神々の儀式の暦で生活していました。人間が自分の好みや考えで神々や礼拝場所をきめるカナンの生活様式や人間中心の宗教観を一掃し、神中心の、荒野の旅の中で身に着けた神の民イスラエルの生活を保って生きていく。そのためにまず、礼拝の場所は神が選ぶ、捧げものをする場所は神が選ぶ、という原則をカナンの地にも適用しました。

真の神の礼拝のため、主なる神が選ばれた住いだけを聖なる場所とするよう命じたのです。

 主なる神はイスラエルに主の住まいに捧げものを持ってくるよう命じました。

それは主の御前で共に礼拝する家族と共にその捧げものを食べて喜び祝うため、でした。

カナンの神々の神殿のように、人々の捧げものによって神殿やその働き手が豊かになるため ではありません。

「あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい」6節に書かれた献げ物=家畜や穀物を焼き尽くし煙と香りを神に捧げる焼き尽くす献げ物、自分たちの収入の1/10の献げ物、祈り願いが叶えられた感謝の満願の献げ物、自由意志:随意の献げ物、家畜が最初に生んだ初子。

すべて、民の一人一人の働きによって得たもの。民が主に守られ導かれて得たものです。

民のすべてに豊かな実りを得られる健康で頑強な体や力があるなら、それはすばらしいことです。でも、誰でもいつも元気でいられるわけではありません。

主に捧げられたものは、礼拝する民全体に分け与えられました。豊かな者も貧しい者も分け隔てなく、主の御前で主の家族として共に、自分たちに与えられたものを喜び楽しむ。

それが神の民の献げ物であり礼拝でした。

 マルコによる福音書に出てくる盲人バルティマイは、物乞いをしていました。

目の見えない彼は、群衆通り過ぎる物音を聞きました。彼はその群衆の中にナザレのイエスが居られると知って叫び始めました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

ダビデ とは、イスラエルの王国時代の2代目、神に愛された伝説の王の名です。

救い主はダビデの子孫に生れると預言されています。イエス様、ではなくダビデの子よ と呼ぶバルティマイの、神から遣わされる権威に期待する信仰が現れています。

「わたしを憐れんでください」これは詩編などにも出てくる神への祈りの言葉で、ダビデもよく用いています。

 バルティマイは叫び続けます。群衆の中のイエスに届け、と声を張り上げます。

別の町で、イエスが盲人や病人を癒されたうわさを、彼も聞いていて、ナザレのイエスという名を覚えていたのです。ナザレのイエスが通る、と知らせた声は彼に希望を与えました。

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」救いのチャンスが目の前にある。

きっとこの声は届く。そう信じて叫ぶバルティマイの声をイエスが聞かれました。

「あの男を呼んで来なさい」とイエスが言い、人々は彼に伝えました。

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」 あわてることはない。そこから立ち上がりなさい。あなたをダビデの子イエスが呼んでおられる。この時のバルティマイが素晴らしい。

彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がります。聖書で上着は、身分や立場を表すとされています。

物乞いであった自分、憐みを求めて叫び続けた自分を一旦 その場に置いて、彼はイエスの前に出ました。

 イエスは彼の顔を見て「何をしてほしいのか」と聞きます。

盲人が憐れみを求めるなら、目を癒すことだろう。彼は物乞いをしていた 自分でその他の仕事をして生活することができなかったのだから、と、彼について勝手に判断することは

いくらでもできます。けれど、イエスは「何をしてほしいのか」と聞きます。

あなたがダビデの子よ、と叫び呼びつづけた私イエスがあなたに聞く。

あなたの願いは何か。本当にあなたが求めるのは何か。バルティマイの願いは明確でした。

「目が見えるようになりたいのです」イエスは答えられました。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」イエスは「目が見えるようになれ」と命じはしませんでした。バルティマイは信じて願いを口に出したのです。

ダビデの子が呼び寄せて下さった。必ず願いは聞かれる。 そして御業は現れました。

 カナンに入っていくイスラエルの民は、神が選ばれる場所で自分たちが捧げる礼拝を教えられました。神から受けた恵み導き助けを神の民共にと分かち合い、喜び楽しむ。

神に感謝と神のみ業への賛美を捧げる。それが真の神への礼拝である。主はあなたがたを祝福されているからです、と。

 バルティマイは自分の目の前をイエスが通って行かれると聞いて、そのチャンスを与えられたことを喜びつつ、信仰を持って「憐れんでください」と叫び続けました。

そしてイエスはすでに願aいを聞かれた者として彼を送り出しました。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

バルティマイは なお道を進まれるイエスに従い、癒され見えるようになった人生をイエスに捧げました。

バルティマイの目の前をイエスが通る、と告げた人。バルティマイを呼ぶイエスのもとに「お呼びだ」彼を導いた人が居たことも、忘れてはなりません。バルティマイの癒しは彼の信仰の証であると同時に、彼を主イエスの言葉を伝え主の御前に導いた、名も無き群衆の中のあの人々の働きにもよるのです。「あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい」

主の前に集う神の家族を主に感謝し、一人一人を選び用いて下さる主を、御前で感謝し喜びましょう。あの群衆の中の人のように主の言葉を伝えましょう。

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」

私たちを祝福して下さる主に感謝し、主を礼拝する民に加わりましょう。

お祈りいたします。