イザヤ書48章は、ユダの捕囚の民にバビロンからの解放を告げる箇所の一部。捕囚となった神の民イスラエルのための彼=「彼を呼んだ。彼を連れてきて 成し遂げさせる」は、
歴史的には、カルデヤ人の王国バビロンを滅ぼしイスラエルに故郷への帰還と神殿再建を命じたペルシア王キュロスと考えられます。では、15節に「主である神はわたしを遣わし」とあるので わたし はキュロスでしょうか?でも、13節のわたし は天地を創造した方ですから、ペルシア王ではありません。書かれ方が複雑で、旧約聖書だけを見ていると、この混乱は解けません。 新約聖書のイエス・キリストの十字架と復活による罪からの救いを知ると見えてきます。
48章のイスラエルを「呼び出した」これはエジプトの奴隷からの解放を示す言葉です。
わたしは神、初めであり終わりである。わたしが地も天も創造した。イエス・キリストを考えに入れると「主である神はわたしを遣わし」は、イエスを遣わした神とイエスの関係を思い出させます。父なる神 子なる神イエス 聖霊なる神。三位一体にして一人の神
主を知らなければ、48章は読み解けません。
三位一体の神は天地創造を行い、イエス・キリストは天地の初めからのことを知っている方なのです。神はエジプトの時と同じように、バビロンからイスラエルを呼び出すために
ペルシア王キュロスを用いましたが、その歴史の記録の中に 後に救い主として遣わす、
イエス・キリストを預言する言葉を含めました。 解放と共に、再び彼らイスラエルに与えられる子孫繁栄の約束は、父祖アブラハム・イサク・ヤコブに与えられたと同じ、神の祝福をこの民が与えられていることを示しています。
イエスの時代のユダヤ人たちに、律法と預言者の書を教えていたのが祭司長・律法学者そして民の長老たちです。きょうのマルコ福音書の前の箇所で、イエスに何の権威で神殿で人々に教え、奇跡を行うのか、と聞いた彼ら宗教指導者たちはイエスからこう聞かれました。 バプテスマのヨハネの行った洗礼は天 つまり神の御心に従ったものか、それとも人の知恵でヨハネが勝手に行ったことか。でも彼らは「群衆を恐れ」答えませんでした。
そんな彼らを前にして、イエスはぶどう園と農夫たちの例え話をされたのです。
ぶどう園を造った農場主は 主なる神。ぶどう園 はイスラエルの民を表し、垣根は律法を、ぶどうの搾り場は神殿の祭壇を、見張りのやぐらは神殿 現代の教会を指しています。
そして農夫たちは、宗教指導者たちを表します。収穫を受け取るために、神が遣わした僕 は預言者たち。最後のもう一人。殺された僕は、バプテスマのヨハネだと言われています。
袋叩きにされ、頭を殴られ、侮辱された旧約の時代の預言者たちは、その時代の宗教指導者たちが神ではなく王や民の言葉ばかりを聞いて神に従わないことを預言書に書き続けて来ました。預言者イザヤの書48章でも何度も、「わたしに近づいて聞け」「わたしに耳を傾けるなら」と、民が主なる神に聞くことを求めています。当然、イエスの時代の指導者たちも
この箇所を知っています。
バプテスマのヨハネを殺したのはヘロデ王ですが、この時代の宗教指導者のだれひとり、
ヨハネのために王に命乞いをする者は無かったのです。
農場主は愛する息子を遣わします。農夫たちは農場主に雇われた身でありながら思い上がり、跡取り息子を殺せば農場は自分たちのものになると考えて殺し、ぶどう園の外に放り出しました。これは、完全にイエスの受難と重なります。イエスはゲッセマネの園で捕らえられ、エルサレムの都の外のゴルゴタの十字架で亡くなりました。
きょうの箇所で恐ろしいのは、イエスの例え話を聞いた宗教指導者たちが、この例え話は自分たちへのあてつけと気づいたことです。彼らは怒り、イエスを捕らえようとして、預言者が幾度も聞く耳を持たない民、と非難したのが、自分たちだと認めてしまったのです。
イエスは詩編118篇22節「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の
御業わたしたちの目には驚くべきこと」を引用して、彼らを 家を建てる者、と呼びました。
聖書を教える者、聖書を学び 神のみ業を語り伝える者は、家を建てる者です。
イエスの「岩の上、砂の上 に家を建てた人」の例えを、マタイやルカが書いているように、家は土台をしっかり造るかどうかで、強度や耐久性は変わります。昔、私の実家でも
柱が足りない部屋がありました。そこは床に置いたボールが転がる部屋でした。
人々の内に神の住まう家を建て上げるべき宗教指導者たちは、やがてイエスを捕らえました。神から遣わされ人となった子なる神は、ご自身を捨てた「家を建てる者」たちの救いのために、十字架で死なれたのです。
マルコ12章の宗教指導者は、現代で言えば教会の牧師や役員や信徒の立場です。
信徒は指導者ではない、と思うでしょうか。信じて神の言葉に養われる私たちはみな、神の言葉を魂の内で管理する者、それぞれの内に神の家を造り上げる働きをしているのです。
そして私たちが信仰を持って生きる時、その生き方や話す言葉によって、神の恵みを知る人たちの内にも、主はご自身の家を建てる準備を始めて下さるのです。
例え話の農夫たち。彼らが忠実であれば、農場主は収穫を彼らと分け合い、共に喜んで下さったに違いありません。 彼らは自分たちが農場主から雇われ 遣わされた立場を忘れ、託された農場を私物化しました。そうなるまで、農場主は彼らを放っておいてはいません。
幾度も僕を遣わし続け、諦めず、主はご自身の独り子さえも遣わしました。
私たちの神の民として与えられた永遠の命は、主イエスの犠牲によって与えられました。
私たちが神から遣わされた場所にも、主は必要な助け手を送って下さいます。そして、私達の内に神の家を建て上げるために、主イエスご自身が隅の親石となって下さった。
この土台は主なる神によって与えられた、確かで永遠の礎です。
お祈りいたします。
コメントをお書きください