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「宝を管理する」

 

 きょうのマタイによる福音書は5章から7章まで続く、イエスの山上の説教の一部です。

21節の「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」という言葉を鍵にして、きょうの新約と旧約の言葉を考えていきましょう。

 富、というと金銀財宝や広大な土地や豪邸がイメージされるかもしれません。でも聖書が富と呼ぶのは、神から私たちに与えられている恵みの一つ一つを言います。金銭や貴金属だけでなく知恵も健康も命も、そして家族や環境も神から与えられた「富」と考えられます。

そうすると この言葉にもう一つの、怖い意味が見えて来ます。

 私たちは遠い昔から、お互いの持っているもので相手を判断して来ました。

狩りで生活していた時代から、獲物の大きさや珍しさ、皆が欲しがる物かどうかはその人への評価材料でした。でも、どんなに苦労して手に入れたものも、19節20節でも言われるように、時間が経つと劣化してしまう。虫が喰う、錆びる、盗まれるという心配はいつも付きまといます。イエスは「富は天に積め」とも、「神と富に仕えることはできない」とも言われました。この2つは同じことを言っています。富と私たちの関係を変えなさい、と言うのです。

金銭や土地や物などの富や、知恵や体力や健康といった私たちの身体能力としての富を、私たちは自分自身の努力・能力で手にいれるもの、と思ってしまいがちです。

イエスは6章33節で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われました。

もともと、私たちの体も心も、天地万物全ても、主なる神が創造されたのです。

私たちは主なる神を信じて、主から与えられるすべてを心から感謝して受け取るばかり。

私たちが富の豊かさを受け取り、楽しむために努力します。その、私たちが努力する力も

導きも、すべて神から与えられるのです。

 「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」この言葉に、怖い側面があるとお話しました。すべての富が神から与えられる。私たちには、真剣に神を信じて生きること、

すべてを神に感謝することができる、と言う時、

私たちの足元は2つの方向ですべりやすい転びやすい、失敗しやすいところがあるのです。

1つは、たとえば健康、たとえば能力という神から与えられたものを大切に思う。

だからこそ、神に感謝し祈ることよりも、その能力をもっと伸ばそう、大事に育てよう、と一生懸命…いつの間にか神の姿が見えなくなる、という本末転倒が起きてしまう。

大切にし過ぎて、恵みであったはずのものが自分の神になってしまうのです。私たちが恵みを下さる方と、与えられた恵みを見誤ってしまわないように。「まず神の国と神の義を」と

イエスは言われました。何を第一にするか。それが失敗しやすいところだからです。

 もう一つの失敗しやすいところ。その罠にかかったのが、きょうの旧約聖書に出て来た、

アハブ王です。彼はイスラエルの王。王は必ず祭司から聖なる油を注がれ、主の御名によって任命されて初めて即位できます。神から与えられたものとして王の位も、王としての責任も生活にも感謝し、責任を果たすため主に祈って生きることこそ、王がするべきことです。しかし、アハブ王は列王記の中のどの王より、主に逆らいました。16章で即位して以来、

主に従わず、シドン人の王の娘イゼベルと結婚しシドンの神バアルに仕え、イスラエルの神の礼拝所にバアルの偶像を立てて礼拝させ、神の怒りを受けました。

神から遣わされた預言者エリヤは度々、バアルの預言者と対決しました。

 アハブ王がどんな罠にかかったのか。神から与えられたすべて:権力も地位も命も、

すべて自分のものになった、自分の勝手に思うまま使ってよい、と考えたことです。

王の心は高慢になり、居場所を間違えました。アハブ王にとって王国はすべて自分のもの。自分が欲しいと言えば手に入る、と思っていたのです。王宮の隣の、豊かにぶどうの実る

ナボトの畑を譲り受けるため、替わりの畑を与えよう、畑は代金を払ってもよい、と言ったのは、アハブにとっては破格の、受け入れられて当然の条件でした。

 しかし、畑はナボトにはとって大切な先祖伝来の相続財産です。ナボトはプライドと信念を持って畑の譲渡を断りました。王妃イゼベルはアハブの名で偽証する者を雇ってまで、

まるでわがままなすねた子供のようなアハブのために不正な裁きを行い、ナボトを殺して

畑を手に入れます。偽証者を置いたということは、

イゼベルもこの土地を手に入れることは不正だと知っていたのです。

 アハブとイゼベルによって、ナボトは謀殺されました。しかし主はアハブにエリヤを

通して告げました。「あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」

列王記上は22章でアハブの死を書きます。神から委ねられた王としての責任を、自分の権力と間違って受け止めた王は正しい人の血を流して、自分の命を失いました。

神から与えられた立場を使ってアハブは神の座に座ろうとし、命を軽んじました。

 イエスは「天に富を積め」「神と富 両方に仕えることはできない」と教えるにあたって、

体のともし火は目だ、と教えました。目が澄んでいれば全身が明るい、と。

あなたの幸せはどこから来たのか。あなたに命を与え、生活する力を与えたのは誰か。

誰に感謝し、何を大切にするか。自分に与えられている恵みを見極めるために、

私たちは澄んだ心の目を保つ必要があります。私たちの中にあたえられた光によって、

私たちが正しい道を選べるように。

 主イエスの十字架と復活と昇天を通して、私たちは聖霊なる神と共に生きる時を与えられました。与えられた富を宝として大切に管理するために、私たちの心がどこにあるのかを見失わないために、聖霊の火の光を与えられたのです。恵みを見極める力を下さった主なる神に、感謝しましょう。私たちの富のあるところに、私たちの心があるのですから。

お祈りいたします。