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「過ぎ越された者の群」

 

 イエスは過ぎ越しの食事の席で、パンとぶどう酒を弟子たちに分け与えました。
過ぎ越しの食事は除酵祭の第1日の夕食でした。除酵祭 つまり、イースト菌とか酵母と呼ばれるパン種 を入れずに焼く膨らまないパンの祭。これはイスラエルの民がエジプト脱出にようやく成功した日の記念として行われる祭りです。種入れぬパンの祭 とも呼ばれる食事については、きょうの出エジプトの記事の前に書かれています。
 酵母を小麦粉に混ぜてこねると、ふっくらと柔らかい美味しいパンができます。でも
ふっくらさせるにはしばらく 酵母が働くための時間をとらなくてはなりません。神は民にエジプト脱出の支度を命じました。食事のために用意した小羊。その血は鉢に注ぎだし、羊の頭も内臓も、食べ残した肉や骨もその夜の内に焼却しなさい。民は腰帯を締め、靴を履き杖を持った旅装束で食べなさい。パンが膨らむのを待つ時間はとらず、酵母を入れないぺたんこのパンを、すぐ出発できる準備を整え食べるのです。
 エジプトに戻ったモーセと兄アロンは王ファラオに交渉を始めました。彼らは「奴隷を解放しろ」とも「民を自由にしろ」とも言わず、「民をエジプトから去らせ、荒野で民に主なる神を礼拝する時を与えよ」と言いました。王は頑固にイスラエルがエジプトから去らせようとせず、神はエジプト全土に自然被害や天変地異を起こして王に決断を迫りました。10回に渡る災いの最後に、神はエジプトの初子を撃ちました。初子とは母が最初に生んだ子。エジプト中のすべての初子が 王も民も奴隷も家畜さえも死にました。
 イスラエルの民の家の入口の鴨居と二本の柱には小羊の血が塗られました。その家にはイスラエルの民が住んでいる。彼らが一歩も出ずにいれば、主から遣わされた死の天使は彼らの家を過ぎ越し、民は守られました。
この夜の内に王はイスラエルの人々がこの国から出ていくことを認め、旅装束で夜を明かしたイスラエルの:男だけでも60万人 全部で100万人を越えるかも知れない人々は、
夜明けと共にこの国から奴隷の家から出ていきました。
この夜を記念して毎年、ユダヤ人たちは過ぎ越しの 除酵祭を守るのです。
 イエスは弟子たちと共に除酵祭を祝うため、部屋と食卓を用意されていました。
きょうのマルコによる福音書は最後の晩餐の記事です。晩餐の準備のころ、ユダは祭司長たちとイエスを引き渡す交渉をしていました。
 私たちがイースターを前にして学ぶ、受難週の出来事。最後の晩餐からゲッセマネの園でのイエスの祈り、イエスの逮捕、大祭司とヘロデ王、そして総督ピラトによる裁き、
そしてゴルゴタの十字架へ。イエスと12弟子が晩餐の席に着いた時、イエスの十字架の死に向かう動きが、すでに始まっていたのです。
 食卓でイエスは12弟子の内に裏切る者がいると告げました。21節「人の子は聖書に書いてあるとおりに、去って行く」とイエスは言われました。晩餐の食卓を見ていたかのような
文が、詩編41篇にあります。「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします」
ユダがどんな気持ちでイエスを大祭司らに引き渡したのか、聖書は私たちに語ることはありません。私たちはマタイによる福音書と使徒言行録のユダの自殺の記事を読むだけです。
ユダの裏切りはイエスが十字架への道を進むためにとても大切な動きとなりました。
しかし、イエスにとってご自身に最も近い12人の1人が裏切ることは、とても悲しく残念なことです。晩餐の席ではまだ、ユダも弟子たちもイエスの十字架を想定していません。
イエスの「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という厳しく見える言葉は、その後のユダを想う愛にあふれたものとも言えるでしょう。
 22節から25節のイエスのパン裂き。これは後に聖餐の制定の記事とされるところです。イエスは賛美の祈りを唱えてパンを裂き、感謝の祈りを唱えて杯を渡されました。それまで食べていたパンや杯とは違うのです。これは五千人が満腹した奇蹟にも通じます。
イエスはご自身の十字架への道を想いつつ祈り、弟子たちに与えました。イエスの身体にはまだ、傷ひとつありません。まるで出エジプトの夜、イスラエルの民が用意した、小羊のようです。すでにご自身の犠牲を覚悟されたイエスは、その計画がユダによって動き出したことを知って言われたのです。「取りなさい。これはわたしの体」「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」 イエスの死を前提に、聖餐は制定されました。
十字架のイエスは、生贄の小羊とも呼ばれます。
 出エジプトの夜、イスラエルの民の家の入口には小羊の血が塗られました。
イエスが十字架で流す血は私たちが自分自身の罪のために辿るはずの、滅びの国への道を閉ざし、死の天使を近づけない力のある血。十字架によって私たちは滅びの道を過ぎ越したのです。
 出エジプトの晩、まだ主の天使がエジプトを巡り歩くより前に、人々は主の言いつけ通り旅支度をしていました。やがて開かれる奴隷の家からの解放を喜び、約束の地への旅を始める、その準備の旅支度でした。
この世で最後の晩餐の席で、イエスはすでに、神の国で囲む食卓のイメージを明確に持っておられました。「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
この時のイエスに、ご自身の死を見据えた絶望感はありません。
共に食卓を囲んだ者たちと神の国で囲む食卓を、すでに喜び 希望していたのです。
死と滅びの運命を、私たちは主イエスの十字架によって過ぎ越しました。
滅びを過ぎ越した群に約束されているのは、永遠の神の国の栄光なのです。
お祈りいたします。