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「闘いつつ踏みとどまる」

 

 ヤコブはたった一人、ヨルダン川の手前に留まりました。明日には兄エサウと再会します。
彼は恐れていました。彼が父イサクと兄を騙し長男が受けるべき祝福を奪い、そのために兄に命を狙われヤコブは逃げ、…それ以来、数十年ぶりです。彼は家族も財産も、逃亡先で得たすべての財産を向こう岸に渡らせました。その夜、独りになった彼は生涯忘れられない夜を経験します。
彼は不意に知らない誰かに襲われ、わけがわからないまま格闘したのです。
 この箇所について、昔からいろいろな解釈があります。彼と闘ったのは神ご自身だった節、
神の子イエス・キリストが相手だった説、天使だった説。そして、ヤコブが真剣に激しく、格闘するほどの熱意で神に祈った、という説もあります。どれが正しいかの推理ではなく、この箇所から何が読み取れるか、考えて見ましょう。
 悩みを抱えたヤコブは、たった一人、眠ることもできずに闘いました。
ヤコブはその人が現れることを予想もしませんでした。
過去の罪と、明日に迫った兄との再会、その上 いま自分に襲い掛かる正体不明の敵。
ヤコブは「誰だ?」と聞く余裕も身構える間もなく、格闘が始まります。夜です。相手の顔も姿も見えません。なぜ自分は闘っているのか、なぜこの人は現れたのか、意味も理由も原因も、全く不明。でも闘いは続きます。理不尽さに怒る余裕もありません。
 銃や刀や槍などの武器は使わないレスリングや相撲のようなやりかた。体と体のぶつかりあいですから、相手の力も体温も息遣いも体臭も肌感覚も、ヤコブは全身で感じたでしょう。
この格闘が実際に体と体の闘いでも、また激しい祈りを闘いと表現したものでも、
私たちがこれまでの経験と、似ていませんか?
 働きの場 学びの場でも、家族の関係の悩みも、守るべき家族や責任ある仕事の前では深く考えることができません。私たちが本当に悩んだり落ち込んだり問題の苦しさを感じるのは、
自分一人になり守るべきものから手を放した時です。
ヤコブは家族を川の向こう岸に行かせ、独りになっていました。
 悩みも、突然 起きる天変地異や事故や病気も、初めはその全体像は見えません。
どういう対処が正解で最も賢いやり方なのかも、最初からわかる人間はいません。
けれど現実は逃げようもなく襲い掛かって来ます。
私たちは自分の問題は自分で何とかしようと思っています。神様にお願いするのは、本当に困った時、ぎりぎりまで頑張ってから、と。何で自分にこんな不幸が降りかかるのか、
自分は何か悪いことをしてしまったのか、その罰なのか?と思うこともあるでしょう。
でもその苦しみは、ヤコブの股関節脱臼かもしれません。
私たちは何度も、気持ちが挫かれ、心が折れる思いをします。
それでも神に助けを求めようとしないなら、
私たちの生き方は、パウロが手紙を書いた、コロサイの信徒たちと同じです。
あなたたちは神と敵対していた。パウロは彼らにそう言いました。
神はすでに、御子イエスを遣わしたのです。私たちはすでに、キリストの十字架の血によって咎める所のない者として癒されたのです。それなのに、私たちは自分の力で闘おうとする。
それは御子イエスの十字架なんて必要ない、と宣言するようなものです。
ヤコブにもこれで勝てると感じた一瞬がありました。しかしその時、相手はヤコブの腿の関節を打ちました。踏ん張るにも、歩くにも大切な関節が外れ、ヤコブの負けは確定しました。
ヤコブの自信も技も、関節と共に挫かれました。
かなり痛いはずです。この痛みの中でヤコブが相手を捉まえ放さなかったのは、すごいことです。ヤコブは言いました。「祝福して下さるまでは放しません」
祝福は神が行う業です。神が私たちを祝福すると、私たちは恵まれるのです。
人間が誰かを祝福します、という時、聖書的にはその人は神に、この人を祝福して下さい、と祈っているのです。
大きな困難に出会っても、これは罰だと落ち込むのではなく、遠慮せず、神が私たちのために働いて下さることを期待して従うことを、神は求めておられるのです。
 兄との再会を目前にしたヤコブにとって、ヤコブ「押しのける者」という名は、兄との関係を壊した罪を思い出すものでした。ヤコブと真剣に闘って下さった方は彼の自尊心を砕くと同時に、彼に新しいイスラエルという名を与えました。「神と闘う」とも「神が闘う」とも訳せる名です。過去の罪の呪縛から彼を解放した方は、ご自身が彼と共に居る。共に闘う、という
約束を与えたのです。
復活したイエス・キリストは、死と滅びの恐れのない、永遠の命への希望を与えて下さいました。そしてさらに、聖霊によってキリストの霊が信じる私たちの内に住む、と約束されたのです。その約束はペンテコステの日に実現したことを、聖書が伝えています。
 今も私たちと共に働いていて下さる聖霊なる神。この方と共に闘うことは、パウロが喜んで加わった希望の計画に加担することです。すべての人が神との関係を回復され、罪の痛みから解放される。その良い知らせを伝える役割が、私たちに与えられているのです。
パウロは御子イエスによって救われた者たちに勧めました。
「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」
信仰によって、神の民イスラエルに加えられた私たちが「揺るぐことなく」信仰に「踏みとどまる」
には、どうしたらいいのか。あの日の明け方のヤコブに倣いたいと思います。
ヤコブは一晩中、あの謎の人と闘い続けました。
疲れ切った彼は腿の関節を打たれ、痛みの中に居ました。
けれども彼は闘う相手を捉えて、離さなかったのです。
 社会的にも、精神的にも、私たちは絶え間ない試練の中に居ます。まるで闇の中、
問答無用でヤコブに襲い掛かったあの人のように。 私たちの毎日は苦労の連続です。
「踏みとどまりなさい」。でも私たちは弱く、ヤコブのように闘い続ける力はありません。
パウロも同じでした。自分自身の力で闘い続けることはできないと知っていました。
主なる神を離さず、信仰に踏みとどまるために、私たちも聖霊によって与えられた力で、
パウロのように闘い、信仰に踏み留まりましょう。
「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、…わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」
お祈りいたします。