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「弱い者の幸い」

 

20221016「弱い者の幸い」
イザヤ書25:1-9、マタイによる福音書5:1-12       中村文子
 主なる神が弱い者の砦となり守られる、とイザヤ書が書いた苦難は、日本に住む私たちにも身近な危機です。秋を迎えた今、暑さは通り過ぎました。でもまだ台風も発生しやすい時期で、日本全国どこでも近年、線状降水帯が発生し町ごと水没する事態がよく聞かれるようになりました。自分の町が晴れていても、川上で降った豪雨の被害を受けることがあります。
これはまるで、ロシアとウクライナで起きている戦争が世界の景気を冷え込ませている現状と似ています。イザヤ書は暴虐な者の勢いを豪雨に喩えています。主なる神は暑い夏の日照りを和らげる雲の陰のように、豪雨から身を避ける逃れ場のように私たちを守って下さる。
預言者たちの前で、異邦の民は神の民と呼ばれたイスラエルに勝ち、勝利の歌を歌いました。彼らの騒ぎが鎮められ彼らの歌声は低く抑えられる。そして、すべての民の顔を包んでいた布、国々を覆っていた布が滅ぼされる。イスラエルの顔 ではなく すべての民の顔。
実は、イザヤ書19章には万軍の主が、イスラエル人以外の人々を「わが民」と呼ぶ記事があります。その相手は、なんとエジプトとアッシリアです。このイスラエルを苦しめた国々は主に打たれ、しかし彼らは苦難の中で主の名を呼び、彼らは主に癒され主を礼拝する時が来るとイザヤ書は書くのです。
 聖書で「顔を覆う」は2つ出て来ます。一つは出エジプトのモーセ。彼が山で主と語り合った後、顔が主の栄光を受けて光っていたので、顔を布で覆ったと書いてあります。
もう一つはエステル記。王妃エステルとその民を滅ぼそうとしたハマンは王の前でその罪が明らかになり、処刑するために捕縛されたハマンの顔が布で覆われた、という記事。
モーセは神の栄光の輝きを、神に近づくことを恐れる民から隠す覆い。
ハマンの場合は死と滅びが確定した者の呪いを表す覆いです。
主はこの山で…死を永久に滅ぼして下さる。
山は主イエスが十字架に架けられたゴルゴタを表しています。その山で主が催される祝宴で、良い肉と古い酒が供される。これは聖餐のイメージです。
すべての民の顔を包む布は滅ぼされた。もう、私たちはハマンが経験した死と滅びの運命から救い出されたのです。民も国も、滅びの呪いから解き放たれました。
聖く栄光に輝く神の輝きに、汚れた罪だらけの自分はきっと死んでしまうと恐れた民のように、遠ざかる必要は無いのです。
 マタイによる福音書で、イエスは山に登り人々に向き合いました。
みんなに声が届きやすいようにという配慮でもありましょうが、主の山に人々を招くイメージでもあります。 「幸いな人」はみんな弱い。弱い立場に置かれた人です。
①心の貧しい人とは、謙遜な自分に足りないところがあると気付いている人。
自分に助けが必要と自覚する人です。イエスは天国はこの人たちのものと言いました。
②悲しむ人は、苦しさや、やり場のない葛藤が解決されていない人、痛みの中にいる人。
この人たちは「神から慰めを受ける」または「受けている」とイエスは言います。
③柔和 心が柔らかいこと。穏やかで謙虚で寛大で、暴力に訴えない人です。
様々なこだわりから解放されたこの人が「受け継ぐ」「地」とは、神が「産めよ増えよ地に満ちよ」と祝福した場所、命を与えられた者たちの場所です。
④必要を強く感じる状態が飢え渇き。義に飢え渇くとは、神の義の高みを仰ぎ見、真の正しさの理想を知り、真心から目指し求める人です。神から自分も隣人も正しい認めて頂くことを望み、不正義や不平等に苦しむ人に全力で寄り添う人。
この人に「満たされる」と約束できるのは、真に義である神だけです。
⑤憐み深い人は、義に飢え渇く人と似ています。主なる神の御心に倣う生き方をしている人で、自分が後回し。人を憐れむこの人自身が。神から憐れみを受けるとイエスは言いました。
⑥心の清い人とは、純粋で混じりけもごまかしも無い人。もしかしたら「天然だ」と言われてしまうかもしれません。打算が無い素直なこの人は、神と自分との間に何の曇りもわだかまりもない、神の御心に沿って生きる人です。だから「神を見る」のです。
⑦イエスの言う「平和を実現する人」は、人と人、国と国の「敵対」から目を逸らさない勇気ある人です。争いを起こさず寛大に、努力も無駄も惜しまない。まるで、神が私たちに常に祝福と愛を注いで下さるのに似ています。でも人の目にはただの無駄に見える。でも神は「無駄」を問題にしません。そんな神に倣い平和を実現する人が、神の子と呼ばれる人です。
⑧迫害の歴史の中の人々は、まさに義のために迫害される人でした。
世界がどんな価値観で動いていても神の側に立ち神の言葉を伝え続ける人伝え続けて来た人。ぶれることなく、神の御心に沿い心から神と苦しみを共にする人に、イエスは「天国はあなたのもの」と言われました。
幸いな教えをイエスは山の上で語られました。祝福の山は主が救いを完成された山です。
救いを祝って喜び踊ろうと預言者は記しました。主の御手はこの山の上にとどまる。
イエスも大いに喜べ、と言われました。「天には大きな報いがある」と。
報いは天で?天国にいくまで、努力は死ぬまで報われないのでしょうか?
マタイ5章をもう一度見て下さい。幸いになるでしょう ではありません。
「幸いである」という言葉は現在形です。今「幸いである」とイエスは言われた。
受ける報いも、すべて言い切りのかたちになっています。これは「たぶん」ではなく、
「そうなったらいいですね」でもない。確定した約束なのです。
天の国はその人のもの。慰められる。地を受け継ぐ。満たされる。憐れみを受ける。
その人たちは神を見る。神の子と呼ばれる。
このすべてを言い切る形で言うことができるのは、人間ではありません。
イエスのために罵られる人、迫害される人、身に覚えのない悪口を浴びせられる人。
そのすべてを知る方はおひとりだけです。「天には大きな報いがある」
ここで言う天 は 天国というより、天におられる方。主なる神です。
私たちの弱さ、恐れ、悩み痛みすべてを知る方は私たちの顔から覆いを取り去り、
主の山で私たちの涙と恥を拭い去り報いて下さる方。
遠慮なく近づいていく私たちに主は言われます。「あなたたちは幸いだ」と。
お祈りいたします。