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「必要を知る神」

 

 衣替えが必要な気温になり洋服選びが難しい季節。「どれを着るか」「何を食べて健康に痩せるか」は日常の関心です。でも今日の箇所でイエスが語り掛けた人々の悩みは深刻です。彼らの悩みは「どうやって着る物を手に入れるか」「きょう家族が食べるものがあるか」でした。
お金の話をすると下品で欲が深いと言われがち。でも、家族も自分も生き残りがかかる事態に陥った時、何を食べよう、何を着よう、資金はあるかという悩みは大きいものです。生活の見通しが立たない人にとって、自分の口座の残高や請求書は他の興味を全部消す大きな問題です。
 祈っても解決は無い。今は神様よりも重要なことがある。そう言ってイエスの話を聞かない人はこの時代にも沢山いました。では、イエスの周りで話を聞く人々は豊かで生活に不安の無い人々でしょうか。いえむしろ、彼らは悩みつくした人々。困り果てて自分たちは人からも神からも見放されたに違いないとあくせく悩んだ物事を放り投げ、希望を与えるイエスの言葉にすがった人々でした。
 命あるものとして この世に居る、という点では、私たち人間もカラスも野の花も同じです。
命も生きる場所も栄養も、すべて神様から頂いていることも、私たちは鳥や花と同じです。
イエスが言われたように私たちがどんなに悩んでも勉強しても工夫しても、私たちは自分の命をたった1日分、確実に長生きできるわけではありません。これも鳥や花と同じです。
空の鳥や野の花は、与えられた環境で精一杯生きています。彼らは悩まず不安がらず、命の限り生きてただ静かに一生を終えます。
もちろん、鳥や花と私たちは役割も生き方も全く違います。彼らは他の生き物に自分から関わることはありません。イエスも鳥や花に対して、お前たちも地球に配慮しろとは求めません。
イエスは人々に、自分の持ち物を売り払って施せと言いましたが、それは ただでさえ貧しい人々に、何もかも手放して無一物になれ、と言ったわけではありません。
イエスは鳥や花の生き方に目を向けさせました。働きもせず紡ぎもせず。それでも楽しそうに空を飛ぶ鳥や美しく咲く花。その自然な美しさやありようは、魅力的なだけでなく羨ましい、と感じることもあるのではないでしょうか?
自然の生き物たちは何の努力もしません。悩みません。彼らは神から与えられたままに生き、時が来ればその生涯を終えます。
持ち物を手放して天に宝を積めと教えたイエスは、神が求めているのが貧しさをぎりぎりまで忍耐することだとは言いません。主なる神に信頼し、手放すこと失うことを恐れるなと言うのです。
ただ神の国を求めて、自然の生き物のように精一杯生き、主に仕えよと言われるのです。
 ヨブは無垢な正しい人と書かれています。なのに、イエスの前にいた人々よりも私たちよりも、ずっと苦しく辛い人生を与えられていて、ヨブ記は読むのが辛くなる書物です。
ヨブ記1章に書かれたヨブの豊かで幸せで楽しい、恵まれた生活。
彼の仲良し家族と平和な生活。そのすべては最初の2章で暗転し、あっという間に失われます。ヨブ記1章や2章で神からも「無垢で正しい人」と呼ばれたヨブは、神を畏れ悪を避けて生きる努力をしてきました。
ヨブ記はヨブと友人たちの、ヨブの苦しみについての論争で大半が占められています。
ヨブも友人たちも、不幸や困難はその人に与えられた神罰だと考えていました。
当初、子供たちや財産を失っても「主は与え主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ」とヨブは言いましたが、病の耐え難い苦しみを経験して不安に襲われます。自分は神に罪を犯していない、自分は無垢だと主張し続けたヨブは、神は不当にも自分を罪人扱いして罰を与えた。神は不当だと怒り、生きていたくないと願うようになります。
きょうお読みいただいた箇所は、神がヨブに応えた言葉の一部です。38章から41章まで、神はヨブに事細かにご自分の造られたいろいろなものについて語られました。
神は神が創造の業を行った時、お前はどこにいたのか。大地が創造され、海が出来、死も光も暗黒も現れた時をお前は知っているのか。あなたは神の手の業すべてを見ることはできない。創造の業一つもヨブには語る力は無い、と示して、神はヨブの思い上がりを指摘しました。
ヨブは大いなる神のみ業の前で、自分は自分の不幸や苦しみの理由を知らないことを認めました。私たち人間が経験する物事は、不幸や理不尽、災難など悪いことは神からではない、と決めてしまう力も、私たち人間の罪への罰と判定する力も、人間には与えられていません。神が私たちに教えて下さるのは、 なぜ それが起きたのか  ではなく、
私たちが理由も目的もわからない事に出会う時も、主が共に居て下さる、ということです。
ヨブは苦しみの中で、神が答えて下さらない、と うめき続けました。その苦しみの時、
ヨブと共に居て彼を支えていた神の御手に、彼は気づかなかったのです。
 「何を食べよう」「何を着よう」貧しさの中で生活が行き詰まる不安に駆られる人々に、
イエスは「信仰の薄い者たちよ」と語り掛けました。イエスは「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば」あなたたちの必要はすべて、神の国に加えて与えられる、と言いました。
すると人々は不安がったのです。願ったところで、自分たちに神の国が与えられるのかどうか。不安でいっぱいだったヨブは、苦しみの中でも共に居る神を知って悔い改めました。
イエスはあなたがたの富のあるところに、あなたたちの心もあると言われました。
私たちと共に居て私たちと対話して下さる主が、私たちの必要も不安も疑問も、すべてを知って導いて下さいます。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる」
主なる神を信頼し、神の御顔を仰ぎ、すべてを神の国に導いて下さる方を賛美しましょう。
私たちにいつも延べられている神の御手を喜び、この方と共に行きましょう。
神は喜んで私たちと共に居て下さるのですから。
お祈りいたします。