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「憐みの器」

 

 きょうの新約の箇所の直前、ローマの信徒への手紙9章18節で「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」と書かれています。
主なる神、聖霊、言葉である独り子イエスの三位一体の神によって、天地万物のすべてが造られました。どれ一つも、神以外の誰かの依頼や命令ではありません。神ご自身が造りたいから、神の思われた通りにお造りになりました。
ローマ書は神を焼き物職人に例えて書いています。同じ粘土から、職人は豪華なディナー用の食器もトイレの便座も造ることができます。何百年も使われ続ける家の壁も、数年ごとに建て替える家の壁も、造り手は真剣に作ります。 同じように神は私たちを造りました。
ある人は多くの人と関わる重い責任のある働きに就き、ある人は毎日 特に誰かと話すことも無い孤独の中で目立たない地味な働きをします。
美しさや醜さ、どこで生まれどこで育ち どんな教育を受けどんな学歴を持って どこに
住むか。気にするのは人間の方です。私たち人間が人間を、生まれ育ちや姿形、役割や収入の多少で判断するからです。だから、造った方を疑い、どんな想いで自分達を造ったかなど知らないのに、神がご自身のお造りになった人間を責め 辛い目に会わせるのは何故か、と文句を言うのです。  そんな人間にローマ書は言うのです「あなたは何者か」と。
 今年の7月から、小岩教会の祈祷会では旧約聖書の歴代誌を学んでいます。歴代誌を学ぶ前、昨年2021年1月から今年2022年6月末まで創世記を学びました。
天地万物の創世からを追う中で、神はアブラハムに呼び掛け、息子イサクを祝福し孫のヤコブにイスラエルという名を与えました。そして神の約束の民と呼ばれた民族の祖先たちに、神は約束されました。あなたの子孫を祝福し浜辺の砂のように、空の星のように数えられないほどにする、と。繰り返されるその約束を、神の民イスラエルは自分たちが神から選ばれ、祝福される根拠として持ち続けました。
 その約束が、預言者イザヤを通して新たなものにされたことを、ローマ書は指摘しています。
きょうの27~28節にあることは、イザヤ書10章20~23節に書かれています。10章は、9章と11章の預言の間に挟まれています。
イザヤ書9章5節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる」 
11章1~2節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる」 私たち皆にも聞き覚えのある、クリスマス預言の箇所です。
イスラエルの残りの者 と呼ばれる人々が救われるのはダビデの父エッサイの子孫のひとりの男の子:イエス・キリストが現れた時。ローマ書が「憐みの器」と呼ぶこの人々は、ユダヤ人
つまりアブラハム・イサク・ヤコブの子孫からだけでなく、異邦人の 非イスラエル人の中からも召し出されると書いています。
イスラエルの民 約束の民と呼ばれた人々は、神に愛された者として、地上に広がるために選ばれ、祝福されて来ました。そしてユダヤ人の一人としてイエス・キリストは生まれました。イザヤ書53章に「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを」約束の民は必ずしも、全員がキリスト者にはならなかったのです。
 詩編135篇には、すでに神の家に招き入れられ神の庭で喜ぶ人々の賛美が書かれています。
これは旧約聖書ですから、この詩編で賛美する人がイスラエルと呼ぶのは、アブラハムの子孫でしょう。でも私たちはきょう、ローマ書が書いた「イスラエルの残りの者」が、主イエスの十字架によって、この賛美の群に加えられたことを知りました。
 私は聖書を読む方法の一つとして、「新約は旧約を通して、旧約は新約の光で読む」と教えられて来ました。ローマ書の光によって読む詩編135篇は、先に天の御国に迎え入れられた先達たちが神の前で捧げる賛美の様子を見せています。
「主は大いなる方 わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方。 天において、地において 海とすべての深淵において 主は何事をも御旨のままに行われる」
主なる神は御言葉なる神を人として世に送り、十字架によって再び約束の民を選び出されました。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」のです。
 ローマ書は神に造られた私たちを器に例えています。神は滅びに向かう私たちの罪を赦し、神の民として やがて御国に迎え入れて下さる。 そのために、主イエス・キリストの十字架の犠牲を「寛大な心で耐え忍ばれ」ました。十字架の血の犠牲によって、神は私たち「器」に注ぐ神の御思いを、怒りから憐みへと変えて下さったのです。
 器は、注がれ盛られるものを受け止め、運ぶために用いる入れ物です。
私たちは注がれるものの価値に気づき、知り、目を開き、受け止める必要があります。
本来、受けることは出来ない 主なる神の憐れみ。主の憐れみの愛と恵みが、私たちを
十字架の血によって清め、主イエスと共に神の子として下さり、御国に受け入れて下さる。
この祝福と喜びをしっかりと受け止め、こぼさず漏らさぬように受け継ぎ、伝えていく。
それが器としての私たちの役割です。憐れみ恵みを受け止める力。それは主イエスを信じる
信仰を通して神から与えられた力です。
この力も、十字架も、そしてやがて迎え入れられる天の御国も、すべて神が造り神が保っている。それも 神が勝手に行われたことです。
私たちが美しいか醜いか、生まれや育ち、どんな教育を受けたか どこに生きたか。
どれ一つも、この憐れみを受ける条件ではありません。
それらすべても、神が私たちに下さった恵みのうちなのですから。
 詩編135篇の神の庭の賛美の声は伝えます。疑い恐れるのではなく、主に信頼せよ、
主の御旨 主の御計画こそが成就する、と。神の国で賛美する先輩たちの声に私たちの賛美を重ねましょう。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して」くださったのですから。
お祈りいたします。