生きてたって何の良いことも無い。これは時代小説の中の科白です。江戸時代の一般庶民の暮らしを書いた作品の一節ですが、現代日本でもこの科白に実感を持つ人はいるのでは、と思わされます。 ようやく感染者が減って、仕事も旅行もイベントも以前のようにできる。
でも今度は戦争や異常気象で物価が高騰し、毎日を楽しめない。そしてまた感染者数が増え…何の良いことも無い、苦しいと時が続くと感じる人も多いのではないでしょうか。
出エジプト記にも日常に喜びや希望を見出せない人々がいます。
神は「わたしの民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とモーセに
語りました。私たちは今、奴隷ではありません。でもまるであのイスラエルの民のように、困難と苦しみの中にいる、と感じているのではないでしょうか?
神は時代を超えて、苦しみの中で座り込む私たちに話しかけて下さっています。
神は「わが民をエジプトから連れ出す」
「彼らを救い出し、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ 彼らを導き上る」
と言われました。 「導き出した時、あなたたちはこの山で神に仕える」。これは命令ではなく 神が予定されたこととして言われました。
モーセが山で主なる神と語るきっかけは、燃えているのに燃え尽きない不思議な柴を見た事。
彼は妻の父の羊の群れの放牧中でした。神の炎に近づいてきたモーセに神は「わが民をエジプトから連れ出せ」と命令しました。しかしモーセはなぜ自分にその役割を与えるのか、と神に反論しました。それまでやってきた何についても、この時の彼は自信を持てずにいたのです。
モーセは神の名を聞きます。神とは誰か。名前で確認しようとするモーセに、神は彼の先祖の名で答えました。昔、イスラエル人の祖先が礼拝した神だった方 ではなく、今も
「あなたの先祖の神。アブラハム・イサク・ヤコブの神」である主なのです。
ルカによる福音書の今日の箇所に「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と名乗られた主なる神の名が引用されています。旧約聖書のヘブライ語またはアラム語も、新約聖書のギリシア語も ここは過去ではなく現在の時制で書かれています。聖書は創世記に出てくる族長たちを、もう死んでしまった過去の人ではなく、今も生きている者として扱うのです。
サドカイ派はファリサイ派と並ぶユダヤ教に属するグループの一つでエルサレムの神殿を
中心に活動して、神殿で礼拝するユダヤ人たちを指導していました。
彼らとイエスの会話は、一見 噛み合っていません。サドカイ派の人達が話題にしたユダヤ人の結婚の話は申命記にある民族存続のための律法によるものです。創世記のイスラエルの息子ユダの結婚の箇所や、マタイによる福音書のマリアとヨセフの結婚にもこの考え方があります。
復活は無い、死後など無い、それがサドカイ派の考え方でした。
彼らはいわゆるモーセ五書と呼ばれる創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記のみを聖書として、私たちの聖書に編集されているそれ以外の書物は聖書ではない、と考えていて、それで復活についてイエスに質問したのです。
イエスはあえて、きょう皆さんと共に読んだ主なる神とモーセとの会話の箇所から彼らに答えました。彼らが信じる律法の書 出エジプト記の中で、神ご自身が彼らの先祖アブラハム・イサク・ヤコブを生きている者として 現在形で話していることを示したのです。
死後について、私たち人間は誰も経験できない。生きている者にとって死は永遠の謎であり、
理解できない大きな不安です。イエスはサドカイ派の人々の不安や疑問を感じ、彼らが律法にむしろ縛られていることに気づいていました。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」
イエスは神を信じてこの世を去った者を「死んだ」ではなく「次の世に入った」と表現しました。
次の世に入る。もはや死なない。天使に等しい。復活にあずかる神の子。
イエスは命を約束する言葉で死の向こう側を語りました。
イエスは神によって生きる者に与えられる希望を語りました。しかしそこに、謎も残されました。 復活にふさわしいとされるのは誰か。復活にあずかり神の子とされるのは誰か。
きょうのルカによる福音書は20章。イエスの十字架は23章で書かれます。いまはまだ、イエスと共にいる人々に十字架とイエスの復活の御計画は伏せられています。
イスラエルの民をエジプトから導き出すために、神は燃える柴の謎によってモーセを呼び寄せ、役割を与えました。「わたしは何者でしょう」
この時のモーセは荒野の羊飼いの一人に過ぎません。エジプトの王室で育ったことも、犯罪者としてエジプトを逃げ出したことも、もう過去です。
今のモーセに神が与えた保証は、神が必ずあなたと共に居るという約束でした。
「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」
私たちにはあの時のモーセと共通していることがあります。
主なる神にモーセが出会った時、イスラエルの民は神が彼らの苦しみに気づいて下さったことを知りません。モーセには民の先祖の神が彼らに約束の地を用意して下さったことを知らせ、民を主の山に連れて行く役割を与えられました。
モーセが民と共に約束の地を目指したように、私たちは共に「次の世」を目指す仲間たちに、イエスの言葉を伝える役割があります。
「復活するのにふさわしいとされた人々は、…もはや死ぬことがない。…
復活にあずかる者として、神の子だからである。…神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きている」
モーセと共に居られたように、主なる神は聖霊によって、私たちと共に居て下さいます。
お祈りいたします。
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