イエスの母マリアとバプテスマのヨハネの母エリサベツは親戚でした。天使ガブリエルも
そのことを知っていて、エリサベトに起きたことをマリアに話しました。
それは 噂話やニュースとしてのお知らせでなく、神からマリアへの大切な知らせと共に、
マリアのためにマリアの助けになる事だから、伝えられたのでした。
天使がマリアに言った最初の言葉は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
何の前触れもなくかけられた言葉に考え込むマリアは、天使が次々と言う大きな 思いがけない知らせにさらに驚きます。
マリアは妊娠して男の子を産む。その子はいと高き方の子 神の子と言われる。その子には偉大な先祖 ダビデ王の位が与えられ、その子は永遠にヤコブの家イスラエルを支配する、と。
その子の名前をイエスと名付けなさい、と天使は言いました。
イエス この名には「主は救い」という意味があります。ダビデの王座を与えられるイエスという赤ちゃん。マリアは小さいころから教えらた、聖書の救い主の預言を思い出したでしょう。
マリアは天使に質問しました。その赤ちゃんが救い主なの?とか
私は貧しい普通の女の子なのに? ではなく、現実的で 実際的な質問でした。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」
ガブリエルも簡潔に、マリアの懐胎が聖霊によること、生まれるのは神の子であることを伝えました。「神にできないことは何一つない」と天使は言い、マリアも信仰を持って応えました。
そして、ガブリエルは親戚のエリサベトの妊娠を告げたのです。
マリアの婚約者のある身での妊娠は、人間的に見てとても非常識と見えてしまいます。
エリサベトの妊娠は人々の驚きで、不妊の女という否定的評価を払拭するものでしたが、
彼女に神の御力が働かれたことを認めない人々から、陰口もあったことでしょう。
エリサベトは「主がわたしの恥を取り去って下さった」と賛美しました。
マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とこの役割を受け止めました。そして、マリアはすぐエリサベトのところへ行ったのです。
祭司の妻は土地の人々の生活相談を受けることもあり、妊産婦の世話をすることもありました。
エリサベト自身、初産ですが、ザカリアの家での経験はマリアの助けになったでしょう。
その中でも、マリアにとって最も大きな力となったのは、エリサベトの信仰。そしてマリアと会った時のエリサベト。そしてマリアと主イエスの来訪を喜ぶ胎内のヨハネの反応でした。
カトリックでは天使ガブリエルがマリアに受胎告知した言葉とエリサベトの賛美を合わせた
定型の祈り:天使祝詞が用いられます。天使祝詞は神の子を身籠ったマリアを賛美し、彼女を神の母と呼びます。
でもその祈りのもととなったエリサベトの賛美は「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」です。すべては神の業です。エリサベトを祝福しマリアにイエスを託したのは天の父なる神です。マリアは天使に知らされた役割の大きさを問題にしません。主に選ばれた自分を誇りはしません。ただ、彼女が賛歌で讃えたように、自分をも用いて下さる神に感謝し、神が行われる御業を喜び、神を褒め称えたのです。
天使はマリアに、幼子がダビデの王座を与えられると言いました。
イザヤ書11章はダビデの家系をダビデの父の名を用いて「エッサイの株」と呼びました。
イザヤは示されました。若枝に主の霊が留まる、と。エッサイの株全体、ダビデとその兄弟たちすべてではなく ひとつのエッサイの株から育つ若枝に。主の霊はこの若枝に力を与えます。戦うための力でも滅ぼす力でもない。知恵を与えられ思慮深く、勇気を持つ方。
その力はつまり、主なる神を正しく知り敬意を持って神を仰ぐ、
神を神として知るための力。見えざる聖なる方を知り、近づくための力です。
自然界では喰い喰われる関係にある猛獣と草食動物:人間の家畜たちが、互いを害することのなく共に安らい共に宿る。幼く小さな子供が彼らを導き、乳飲み子幼子は蛇の穴に手を入れ、死の毒を持つ生きものと遊ぶ。穴とは墓穴。墓穴は死と滅びの象徴です。
幼子は神の子・救い主。エッサイの株から生え育った若枝です。イザヤはエッサイの株が
すべての民の旗印となり、国々はその旗印を求めて集うと書きました。
その旗印が立てられる時、大地が主を知る知識で満たされる。
教会においてこの預言はほぼ、成就しました。キリストの十字架を旗印とする者たちは民族を超え、過去には互いの血を流しあった者たちも、救い主の誕生を祝うために集うのです。
その中には、アッシリアの子孫、バビロンの子孫、ペルシアの子孫、イスラエルの子孫も
私たちもいる。イエスの名のもとに集う新しい神の民イスラエルです。
預言はほぼ 成就した、とお話ししました。ほぼ。イスラエル王国もユダ王国も度々、
神の民は道を外れ、十字架のもとに立てられた教会もしばしば、主の御業よりも人間の知恵、
人間の富、人間の力を頼み崩壊した時代がありました。
でも若枝は、真にダビデの王座を継ぐ王は、私たちのために神の国に続く道を開かれました。幼子キリストは十字架によって、蛇の穴に手を入れました。
罪と死の毒をご自身の血によって消して下さったのです。
今まだ、聖書に書かれた神の言葉が地上に生きる者たちを裁き、地を打つ時が続いています。
イザヤが11章に書いた主の聖なる山は、未だ地上で実現してはいません。
イザヤの時代、マリアの時代には考えられなかった、十字架の旗の下で共に主を賛美する者の群は今も、育ち続けています。
知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊を受け、
聖なる主の霊と共に生きる者となりましょう。
天使が言うように「神にできないことは何一つない」のです。
エリザベトとマリアのように、私たちも主イエスの降誕を心から喜び、賛美しましょう。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」
お祈りいたします。
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