小さな子は大人のお手伝い「する~」とか、自分も大人と同じように荷物を「持つ~」と言い出すことがあります。「あたし(ぼく)もう赤ちゃんじゃない」と言う子を、
大人は このあいだ生まれたばかりの赤ちゃんじゃない!と思うものです。
赤ちゃん言葉じゃなくてもあたしにもわかる。ぼくにもできる。自分にも選べる。わかる。
そう言って、彼らは自分の人格を認めてほしい、自分の意志も尊重してほしい、と一生懸命 主張することがあります。でも、残念ながら、たいてい、彼らがまだ幼児に過ぎず、弱く小さく、すぐくたびれてしまう世話の必要な子供 なのです。
イエス・キリストは神の子で救い主。そう聞くと、きっとその赤ちゃんは生れた時から、普通の赤ちゃんとは、どこか違うのでしょう?実は超人だったのでは?ヒーローなのでは?と
思ってしまいがちです。でも、赤ちゃんだったんです。他の赤ちゃんと同じ、泣くし何もできないし、弱い人間の赤ちゃんだったのです。
どこの国のどんな場所に居る赤ちゃんも、生きることだけに必死です。
泣き声の大きさ、体の柔らかさ、その可愛らしささえも、彼らが生きて育っていくためには大切な力です。他の誰かから「みっともない」と言われる赤ちゃんでも、親にとっては最高で世界一です。親や周りの大人たちに可愛がられる。それは生き残るための大切な才能です。
思いつく限りの赤ちゃんの魅力を思い出して下さい。それは実は、天の父なる神があなたに感じる魅力なのです。 もう自分は大人で、可愛げも素直さも無い?そうでしょうか。
父なる神の前では、私たちは「あたしにもできる!」と頑張っている、小さな子たちと同じ
愛すべき愛しい存在。一人一人が特別な、世界一 最高な存在なのです。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」
他の赤ちゃんたち同様、イエスも生まれ出た世の中が自分を受け入れるかどうかについて、
何の忖度も無く生まれて来ました。生まれてきただけで、世の人々のイエスへの反応はすでにバラバラだったことは、イエスの降誕について記録したマタイとルカの福音書でわかります。
マリアは天使によって自分の妊娠を知り、親戚エリサベトもエリサベトの胎内のヨハネも、マリアの訪問をたいへん喜びます。野原の羊飼いは走り回って乳飲み子イエスを捜し、
神殿で献げ物をする両親は、老人 シメオンとアンナに幼子の誕生を祝われます。
東方から来た学者らは高価な献げ物をして幼子を礼拝します。しかし、エルサレムの人々は
幼子の誕生に不安をいだき、ヘロデ王は学者の情報をもとにイエスを捜し、マリアとヨセフは幼子の命を守るためエジプトへと逃げることになります。
イエスが神の国の福音を語り始めると、人々の反応はもっとはっきりと分かれます。
貧しい群衆はイエスの教えを喜び、お話を聞くためにイエスを追いかけ続けました。
律法学者やファリサイ派の人々はイエスと議論し、イエスが神を冒涜した罪がある、と言うために、言葉じりをとらえようとします。
しかし中には人々の目を避けてイエスの教えを聞こうとやって来る、ユダヤ議会の議員ニコデモのような人もいました。彼やアリマタヤのヨセフのように、イエスの十字架の後、葬りのための支度をして、自分がイエスの仲間である、と表明した人たちもいました。
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
ヨハネによる福音書3章でイエスはニコデモに、新たに生まれなくては神の国を見ることはできない、と教えましたが、ニコデモはすぐには理解できませんでした。
今日の箇所には語られないイエスの十字架が、イエスを受け入れた者が神の子となるために
通らなければならない道なのです。新たに生まれる。それは新たに命を持つ、ということです。それまで持っていた いわば「古い」命を捨てなくてはなりません。
イエスはこの世に人として来られた。それは限りある命を生きる私たち人間に、永遠を与えるためでした。イエスを信じ、イエスを受け入れた私たちは、イエスの十字架によってこの世で持つ命の限界を超える者となる。神の子となる。それは永遠の神の国の民となることです。
預言者イザヤ書45章、神はご自分以外には神はいない、とくりかえし語られます。
目に見えない神を捨て、目に見える手で触れることのできる神の像を担ぎまわる人々に、
「わたしを仰いで、救いを得よ」と言い、「わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない」と言われます。神の言である主の十字架を仰ぐ者は、
罪赦され きよめられ、救われます。イザヤがこの預言書を書いた時、彼はイスラエルの民に語っていました。いまこの書は、新たに神の民に加えられた私たちにも言います。
イエス・キリストの十字架による救いを受けた者は、主によって正しい者とされて 自分達を
救う神を 誇る。
見ることも触れることもできなかった神が、人の子 小さな赤ちゃんとして人の中に住み、
人々の腕の中 魂の内に宿る霊を与える方となられました。
さきほど詩編24編を交読しました。栄光に輝く万軍の主が天の神の国に入って行かれる。
神はただ、ご自分の国に帰国するのではなく、凱旋 つまり勝利の行進をして入って行く。
詩編は王である主を迎えるために、神の国の城門に上がれ、迎え入れよ、と言っているのです。
十字架で罪を清められた人々を神の国に迎え入れる準備が整い、やがてやってくる人々を迎え入れるために、救い主は人々より先に帰国したのです。
すでに、神の救いの計画は完成しています。イエス・キリストは罪と死を滅ぼし、私達を御国に迎え入れるための準備は整っています。
きょうはクリスマス。旧約の昔から計画された救いの業が、地上で神の子によって始められた、
その日を祝う時です。私達を神の子とするために、戦って天の御国に凱旋するために、
救い主は世に来られました。 赤ちゃんたちは世の中が自分を受け入れるかどうかに何の忖度も無く生まれて来ます。神の御計画を、疑いもなく 何の忖度も無く受け入れる主イエスの姿こそ、
最も強く確かな、神の御心に適う生き方なのです。
最強の万軍の主は、最も弱く小さい赤ちゃんとしてこの世に生まれました。
主イエス・キリストのご降誕、おめでとうございます。
神の御計画を喜び祝い感謝して お祈りいたします。
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