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「水の中に」

 

 イスラエルの民の荒野の旅40年を導いたモーセは死に、新しい指導者ヨシュアに主は、
「あなたがどこに行っても共に居る」と約束されました。民も、ヨシュアに従うと誓いました。
ヨルダン川の向こうは、神が約束された地カナン。最初の目標はエリコでした。
 エリコは城壁に囲まれた町。ヨシュアは2人の斥候=スパイを出しました。エジプトでも荒野でもイスラエルの神がご自分の民を守り、奇跡を行われたこと。アモリ人の王国が神の民によって滅ぼされた、という情報はエリコに伝わっていました。彼らが命がけで得た情報で、
エリコの人々が主とイスラエルに対して怖気づいている と知ったのです。 
 ヨシュアは民に「レビ人の祭司が契約の箱を担ぐのを見たら後に続け」という命令を伝えました。見たら続け。人々は契約の箱と祭司たちに注目しました。命令の言葉は続きます。
「箱との間に距離を取れ」二千アンマ 1アンマ(キュビト)は45㎝。約900mほど1㎞弱ほど
契約の箱から離れよと言われたのです。理由は2つ考えられます。
第1、イスラエルの民をカナンの地に導くのは主なる神なのです。
憧れのカナンは民が手に入れる のではなく、神が与えて下さる地なのです。神が先立たれ、人々はついて行く。距離をとり、主導権が主にあることを認識して進め と命じたのです。
第2に、距離を取れば、主の御業を待つ間(ま)を 持つことができます。
御業に期待し近くに居ては見えないお働きを見せて頂く、ということです。
 ヨシュアは民にさらに命じました。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」 何かを待つ時、私たちも準備します。特に緊張する経験が待っている時、自分自身を最良のそして最高の状態に!と努力します。お風呂に入って、服を着替えて。
主はヨシュアを通して言われたのです。
主なるわたしが凄いことをするよ、わくわくして期待して、真剣に待っていなさい。
 主は契約の箱を担ぐ祭司たちの行動を支持しました。「ヨルダン川の中に立ち止まりなさい」カナンと民の間を流れるヨルダン川。普段それほど大きな川ではありませんが、ちょうど春の刈入れの時期。カナンの年に2回の雨季、特に3~4月穀物の成熟を促す「後の雨」で、ヨルダン川は堤を超えそうなほど豊かでした。流れの中では大人の膝丈ほどの流れでも動けないものです。くるぶしほどの水嵩でも、転べば溺れる危険があります。
主が言われた「一度も通ったことのない、あなたがたの行くべき道」 
祭司たちにはまだ道は見えません。「ヨルダン川の中に立ち止まりなさい」
約束の地に向って祭司たちは踏み出しました。彼らの足が水に浸った時、
二千アンマ後ろの民は水が壁のように立ち上がっていくのを見ました。川の流れが消え、
20~30㎞ほど川上の町アダムのそばで日の光を受けて光る水。
わくわく期待して 緊張して待っていた民は干上がった川底を歩き、カナンに入りました。 
 ルカによる福音書3章バプテスマのヨハネも、彼の時代の大きな流れの中に立っていました。彼は神から与えられた知恵と言葉によって、人々に悔い改めを教えました。
ヨハネは自分を神から遣わされたメシア救い主?と期待する人々にはっきり否定しました。
わたしはその方の靴の紐を解く値打ちも無い。 主人のところに来た客の足から靴を脱がせ
足を洗う。当時の最も低い身分の奴隷の仕事です。
天使が告げたヨハネの役割「準備のできた民を主のために用意する」彼は自分自身を、メシアの奴隷以下、と言って距離を取りました。救いを与えるのは主。
バプテスマのヨハネは救い主を「聖霊と火で洗礼をお授けになる方」と呼びました。
聖霊は 私たちの中の恐れを焼き清め、脱穀場を神と私たちの間を隅々まできれいにする火。
 ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアが親族だった、とルカが福音書で伝えたので、
私たちはヨハネはイエスと面識があると思ってしまいます。けれど、ヨハネは早くから荒野で暮らして、川に洗礼を受けに来たイエスに気づかなかったようです。使徒ヨハネの福音書1章のように、バプテスマのヨハネが気づいたのはイエスが洗礼を受けた時。ヨハネは主なる神から示され、救い主に聖霊が鳩のように降るのを見る時を それこそ わくわくして 期待して、待ち望んでいたのです。自分より優れた救い主として遣わされた方、火で清める方が救いの主導権を持っておられる。わたしヨハネは主の御業に期待し、その方のため人々を整えるものだ。
 洗礼式は現代、滴礼と浸礼二つの方法があります。洗礼式の水にはいくつか意味があります。
「水の中を通り」一度 死んで新しい信仰者の命を与えられること。
人が母の胎内の羊水から生まれ出てくること。そして、
出エジプトの民が海の中、ヨルダン川の中を通して約束の地に辿り着いたあの日を記念して、イスラエルの民のように新しい神の民として神の国への約束を与えられること。 
私たちの生活する国で、イエス・キリストを信じる者の群に加わることは少数派になることです。教会の中と外、別の流れの中に入って行くように感じることも多いでしょう。
主なる神の助けが無ければ強い流れの中に立つ力は誰にもありません。
ヨルダン川を渡った民はもう一つ命令を受けました。
イスラエル12部族から1人づつ12人を選べ。4章でその12人は川底の12の石を担ぎ出し、
記念碑を造りました。主の命によって、川を渡った場所に、決して忘れないために。
流れを止める力のある主の御手は確かに働かれました。
私たちは水の中を通らせて頂きました。
 私たちにとって川の水とは何でしょう?
命よりも大切なもの、私たちの努力も存在も消し去る危機。 
自然災害も病気や、戦争や生活の破綻に繋がる危機。
私たちは実に幾度も、大きな水の流れの中を過ぎて来ました。
どんな強い流れも、神が居ない証明にはなりません。
私たちの命も体も、全ては神が造り、神が与え、神が保つのです。
私たちは 主なる神を信じて期待してわくわくして、主の後について流れの中を進みましょう。
主は私たちの前に「一度も通ったことのない、あなたがたの行くべき道」を開いて下さいます。
お祈りいたします。