民数記のイスラエル人とコリントの信徒の印象は、どちらも「困った人たち」。
コリントの信徒たちは聖書にパウロからの2通の手紙が載っています。
この手紙で、私たちはこの教会の問題の多さを知ることができます。パウロもペトロも、使徒言行録に出て来たアポロという指導者も彼らのところに来ました。すると彼らは「パウロ派」「ペトロ派」「アポロ派」「キリスト派」など派閥に分かれ、争うようになりました。その上、教会内で風評被害や泥棒疑惑も起きましたし、信徒同士で裁判所に訴えをおこすなど
「聖なる人々」とは呼びにくい状態でした。
パウロは手紙の口述筆記を弟子に手伝わせています。第1の手紙の助手はソステネ。
パウロが伝道旅行で語ったキリストの福音を信じた人々の群がコリント教会です。ソステネはここの初めからのメンバーで、最初の受難者です。彼はコリントでユダヤ人会堂の長だった人です。彼がパウロの伝道を妨害したユダヤ人たちから暴行を受けことが使徒言行録18章に書かれています。パウロは地中海沿岸の町々にキリストを宣べ伝え、パウロもソステネもキリストの弟子として生きる厳しさを経験してきました。そんな彼らはコリントの人たちに、
あなたたちがキリスト・イエスによって神の恵みを受けていることを、神に感謝しますと書いたのです。
イスラエルの人々はずっと奴隷として苦しんできたエジプトから、やっと解放されました。
でも、彼らが指導者モーセと神に向って文句ばかり言ったのは有名な話です。
百万人以上とも言われるイスラエル人がエジプトから荒野に出て来ました。
彼らは解放されてすぐ、自分たちには飲む水も食べるものも無い、エジプトに居れば食べられた肉も荒野には無いと不平を言いました。すると神は奇跡を起こし荒野に川を流れさせ、
マナと呼ばれるパンを降らせ、ウズラの群を飛んで来させて彼らの望みを叶えました。
イスラエルは、神が目の前の海の中に道を開いて助けて下さる方だと知りました。
エジプト人の鞭によって死ぬかわりに、荒野で死ぬのか、と言った彼らは、神が自分たちと
共にいて下さる方だ、必ず自分たちを生かし守って下さる方だ、と知ったのです。
荒野の旅の間イスラエルは礼拝を レビ人の祭司が運ぶテント式の神殿で行いました。
民は幕屋に臨在される主なる神を礼拝しました。
神は彼らと常に共に居て、雲や燃える火のように現れていて下さったのです。
その雲、その火が、彼らの行動を決めました。彼らは主に、いつも心を向けていました。
夕方から朝まで ほんの夜の間だけでも、1~2日でも、また時には丸1年そこから動かなくても。一旦 動けば何日歩くかはわからない旅をいつでもできるように。
彼らは主の命令に従い、主の言いつけを守りました。主の雲が離れたことに気付かない者は
主の御手から離れてしまう。それは自分たちの命の危機を意味しました。
神の前に「困った人」イスラエルとコリントの信徒たち。悪名高い旧約と新約の彼ら。
その最も大きな違いは、危機感のあり 無し です。
コリントの信徒たちには、荒野のイスラエルのような もし、主から離れてしまったら、
生きていく事ができない、というぎりぎりの危機感はありません。
パウロもコリントの人たちの危機感をあおらず、むしろ励ましています。
自分もあなたたちもキリスト・イエスに召された仲間、あなたたちは聖なる者とされた人々。
やがてイエス・キリストが神のもとから地上に戻り、自分たちとキリストを知らずに生きる人々を神の前に立たせる時にも、主はあなたたちを最後までしっかり支えて、すべての点で
豊かに非の打ちどころのない者にして下さる。
この手紙は、現代の私たちにもとても役に立つ、クリスチャンの基本的な生活や考え方がていねいに書かれています。結婚について、教会生活について、礼拝する者の態度について、
死ぬこと生きることをどう考えたらいいのか。
細かく配慮に満ちた言葉は、パウロとソステネが経験したこの時代、クリスチャンたちが経験することになる妨害や迫害の中をどう生きるか、彼らを導きたいと思ったのです。
あなたたちの力で生きぬくには厳しい時が来る。自分は大丈夫、できると高慢になっては
いけない。あなたたちを聖なる者として立たせて下さる神が、すでに力を与えて下さった。
パウロは彼ら自身に、自分の信仰を確認させました。あなたたちはイエス・キリストが自分たちの罪のために十字架に架かって下さった、ということを確かに信じただろう?
あなたたちが人前で、自分はキリストによって救われた、自分は神を信じている、と話さなくてはいけない時が来る。話す力も伝える知恵も、神が豊かに与えて下さる、と、パウロは
手紙のはじめに彼らを力づける言葉を並べたのです。
現代に生きる私たちは明らかにコリントの信徒たちに似ています。
私たちは神を見ることも、少し先の未来を知ることもできません。
私たちが思ってもいないところで、私たちの決断が悪用されたり権利が奪われたりすることがある。私たちが明日も 今日と同じ毎日が来ると思うすぐ隣に、危機はあるかもしれません。
数百年、数十年かかった変化が、数か月で起きると言われる時代を迎えています。
きょう、私たちはこの場所で礼拝しています。この自由、この機会が未来永劫、何の不安も無く手に入る、と、言い切ることが難しい時代が来るかもしれません。
パウロはコリントの信徒たちに、あなたたちは神の教会だ、キリストによって召された
つまり神によって呼び集められ聖なる者とされた人たちだ。
イスラエルの人々は昼は雲として夜は燃える火として共に居て下さる主を感じることができました。神が共に居て下さる。そこが荒野でも私たちの信仰を妨害し攻撃する人々の前でも、
わたしたちはこの方から招き入れられ、豊かな交わりの中にいます。
いつ雲が昇るかを恐れる必要はもうありません。
主イエスは天に昇られる時、ご自身の霊を私たちに送る約束をして言われました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
必ず私たちを生かし、守って下さる主 イエス・キリストがわれわれと共に居て下さいます。
感謝してお祈りいたします。
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