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「御名による力」

 

 午後3時の祈りの時に人々は神殿に集まりました。ユダヤでは1日は日没と共に始まります。ですから日暮れ前の祈りは一日の終わりの祈り。それは私たちの暦で5月の末ころのことです。
人々と共に神殿に向っていたペトロとヨハネは少し前、祈っていた部屋で仲間たちと共に、
聖霊が降る体験をしました。あの時ペトロは、エルサレムの人々にイエスが救い主キリストと信じる人は聖霊を与えられると語り、多くの人が彼らの群に加わり、教会が誕生しました。
まだこの群の礼拝の方法は確率していません。集まっていた信徒の家の一室が教会でした。
イエスの弟子たちも祈りの仲間も、礼拝はそれまで通り神殿でしていました。
 神殿に人々が集まる時間に、運ばれて来る人たちがいました。体が不自由で、働くことのできない人たちは、神殿の入り口の門の脇に連れて来られ、座りました。これから礼拝する人々は彼らに施しをしました。施しによって自分の憐れみの心を見せることができ、貧しく弱い人々は生き延びることができます。当時、障碍者は罪ある汚れた人とされていました。
彼らには、神殿での礼拝も許されません。彼らは門の脇で人々の憐れみを受けるばかり。
 生れつき歩くことのできない男の人は、いつもその場所に座っていました。
同じ時間に彼をここに連れてきてくれる 運んでくれる人がいたのです。人通りが多くなる夕、その日の収入から神に捧げ、貧しくても空腹で眠ることがないよう最も弱い人にも与える。
それはこの町の日常の風景でした。
 その人はペトロとヨハネにも声をかけました。二人は彼をじっと見て「私たちを見なさい」と
言いました。彼は「何かもらえる」と期待して二人を見ました。ペトロは言いました。
「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」そして何も持っていない手で彼の右手をとり、立たせました。
彼は自分が立ち上がったことに気づきました。自分を立たせてくれた人の顔、先ほどまで見上げていた顔が目の前にあります。自分の足が立っています。弱々しかったくるぶしやかかと、ひざが力強く自分を支えています。この人はお金はくれませんでした。
でも、この人が持っている、と言ったものがいま、自分の体の中にある。歩ける。転ばない。嬉しくて飛び跳ねます。ちゃんと前に進みます。確かに自分は立っている。嬉しい。
神様への感謝と賛美が止まりません。ペトロもヨハネもそのまま神殿に入って行きます。
二人から離れがたくて付いていった彼は、そのまま生まれて初めて神殿に入って行きました。
 彼がそれまで持っていた、生れつき不自由な体。誰かに運ばれ施しを受け、また誰かに連れ帰ってもらう。そんな毎日がこの日、ペトロやヨハネを見上げ、ペトロに右手を預けた時、
変わりました。彼がペトロたちから受け取った「ナザレの人イエス・キリストの名による」力。
それはどんなものでしょう。
 詩編103篇は主なる神の御名を讃えます。ダビデの詩とされるこの詩編は賛美と感謝で
満ちています。自分の魂と内なるすべてに、神の御名を讃え神の御計らい:神のお考えご計画のすべてを忘れるな、と言い聞かせています。
 神の御名を、神様のお名前を讃えよ。お名前 名前とは何でしょう。私たちのまわりの
ほとんどのものには名前があります。まだ名前の無いものに私たちはすぐ名前をつけます。
名前で それ以外 と区別します。するとその名によって、そのもの その人 の存在のすべてが表現されます。細かく説明しなくても、その名を聞いた人は 何のことかわかります。
神の御名は 神の全存在を表し神のご性質のすべてが 御名によって表されます。
神に従って生きる人は、神の御名の権威によって行動します。
神の御名によって祈り神の御名を崇める。それが神を礼拝することです。神の御名は救いの礎。根拠です。神の御名を呼ぶ人は、神に向っている人。神の全存在に依り頼んでいる人です。
 6節 主はすべて虐げられている人のために恵みの御業と裁きを行われる。
美しい門の側に座っていた人は、障害を理由に神殿からも礼拝からも遠ざけられていました。
虐げられていた彼に、イエス・キリスト救い主の御名によって恵みが与えられました。
裁き というと、何か悪いことを指摘され罰を受けるイメージがあるかもしれません。裁きは、
本来あるべき場所はどこか、裁く者によって判断され正しい場所に置かれることを言います。
立たなかった足を癒され、彼は歩ける自分を喜び、神の前に感謝の礼拝をする権利を取り戻しました。
ダビデは主なる神の憐れみと忍耐と慈しみ愛を感謝し褒め称えます。そして、ダビデは
天が大きく地を超えて広がる様によって、神の愛の大きさ限りなさを表現しようとします。
天も地も、東も西も、時も 永遠も、すべて、神の御手によって造られたものです。
私たちの知恵も経験も見えるものをも超えた神を、私たちが 限りある命と言葉と力で
神の御名の力を何とか表現できるよう、神はご自分の創造したすべてのものの中に私たち人を置き、創造の業に感動させて下さるのです。
神はご自分が創り出した私たちに、神の創造のすべてに興味を持ち、調べ知るようにされました。
私たちは知れば知るほど 如何にその御名が 神の存在すべてが偉大か、人には到達できないかを 知るのです。
詩編103篇3∼5節主なる神がどのようにあの男の人を、そして私たちを裁いて下さったか、
書かれています。「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる」 ペトロが彼に与えたのは、イエス・キリストの御名の力でした。
イエス・キリストはご自身の全存在をかけて、十字架で私たちの罪を贖って下さった救い主です。
救い主の御名による力で、罪の現れとされた 彼は癒されました。
神殿のすぐそばで施ししか期待できなかった彼の命は救い出されました。
「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
イエス・キリストの御名の力はペトロやヨハネと同じように、主を信じ救われた私たちも、
持っています。捨てられた者を墓から贖い出し、命の喜びを伝える力です。
感謝して お祈りいたします。