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「栄光ある自由」

  十戒を刻み付けた石の板を、モーセは2回 受け取っています。

出エジプト記20章から31章で、モーセは律法を受け取るために、シナイ山に登りました。しかし、
モーセが山にいる間に民は偶像を作り それを礼拝していました。民が神に背いたとモーセは知り、激しく怒って十戒の板を粉々に砕いてしまいました。その板は神ご自身の手で切り出され、神の筆跡で律法の基礎となる十戒が刻み付けられていましたのに。
 背いた民への裁きが行われた後、神はモーセにもう一度 契約の言葉を伝えました。
40日40夜かけ、モーセは新しい板に律法を刻み付けました。2回目の十戒の板を持って山を降りたモーセを見て、彼の顔が光っていると民が気づきました。民は今度はちゃんと待っていました。モーセが伝える神の言葉を聞こうと、準備していたのです。でも、祭司アロンも民も、モーセから離れ逃げてしまいました。光輝くモーセの顔は、彼がどんなに聖く尊い方と会って来たのか、民に強く強く印象付けました。出エジプト記33章で、神はモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから」と言われました。
神の栄光を受けたことが明らかなモーセの顔。近づけば自分たちは死んでしまう と畏れるほど、民はその輝く肌に驚いていたのです。
 コリント教会への手紙にも書かれたように、モーセは自分の顔に覆いをかけました。
なぜ、民に顔を見せないようにしたのでしょう?モーセの内側からの光ではありません。
主なる神と語り合い神の言葉を受けて帰り、民にその言葉を告げる。その間、
彼は覆いをしませんでした。彼が顔を覆ったのは民に語り終えてから、次に主と語り合う時まで。
モーセは、自分の肌が示した主なる神の栄光のしるしが消えるのを民に見せないために、
顔を覆ったのだ、とパウロはコリントの人たちに書いています。
モーセは神の栄光にふさわしいという印象を民に与えるため、顔を覆ったのでしょうか?
モーセは神から与えられた板を砕くほど、神に背いた民に怒りを現した人です。
モーセは恐れていたのではないでしょうか。
もし民が、自分の顔から主の栄光の輝きが次第に薄れるのを見たなら。民が命の危機を感じた
聖なる輝きが自分の顔から失われていくのを見たなら。
民がモーセにも、モーセに御言葉を託した神にも、信頼を失ってしまうのではないか、と。
わたしたちはキリストによって確信を抱いている。パウロは言い切りました。
自分でできるのでも、自分にはその力がある、と言うのでも無い、と。
モーセの顔の光と同じくパウロの言う「資格」も、神から与えられたものだ、と。
 文字は殺す、霊は生かす、とは何のことでしょう? 
7節以降で出てくる 文字 には、 石に刻まれた という説明が付いています。
石に刻まれた文字。モーセが神から授けられた、十戒の石の板のことです。
十戒を始めとする律法は、神の掟です。神の前で「正しい」とはどういうことか。
何をすると、罪に定められるのか。罪ある者はやがて裁かれ、命を失い滅びます。
山から降りて来たモーセの前で、金の子牛に礼拝していた人々は裁かれました。
イスラエルの民は罪の恐ろしさ、義なる神の聖さを思い知ったのです。
律法に適わない者は裁かれる。パウロはローマの信徒への手紙でこう書いています。
「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と認められないわけです」 律法は文字に書かれた神の言葉です。神の言葉を、モーセは神から直接、受けました。
神との直接の交わりによって、モーセの顔は輝いていたのです。
律法の石の板は、神に背いた民の前で一度、粉々に砕けました。民は自分たちを導いて下さる神への恐れを持ちました。山を降りて来たモーセから、祭司も民も一旦 逃げ去ったように、
人々の心は主と距離をとり 離れています。
人々の心にはまるでモーセの顔を覆った布のような覆いがかかっている、とパウロは言います。
パウロが確信を持って神から与えられた、と言う「資格」を私達も持つために、覆いを取り除かなくてはなりません。 それはキリストにおいて 主の方に向き直れば。
この覆い:神と私たちを隔てるものを取り払うために、十字架があるのです。
主の山の前で神に背き、律法を受け取る資格を失った人々の前で、契約の板は砕けました。
神を覆い 自分達との隔てを取り去ることができなかった私たちのために、
イエス・キリストは十字架の上で、完全に 砕かれたのです。
十字架上でイエスが息を引き取った時、エルサレムの神殿では至聖所と人々が礼拝する場を
隔てていた幕が真っ二つに裂けました。神の聖と、私たち罪人を隔てていた罪は、
イエスの十字架で取り除かれました。
死と滅びに定められていた私たちが、聖なる神に近づく資格を与えられたのです。
神が我々 人を創造される時、土の塵を用いられました。
罪を犯しエデンの園を追われるアダムに、主はこう言われました。
「お前は…土に返る…。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
滅び、塵に返るはずの私たちを、神はイエスの血によって清め、ご自身の神殿とされました。
神の霊が、命を与える方が 内に居られます。
「主の霊のおられるところに自由があります。」 
イエスの十字架と聖霊によって、私たちは律法を超える力を頂きました。
神の律法を運んだモーセは、神の栄光の輝きを与えられ、人々に聖なる神を伝えました。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
土の塵に過ぎなかった私たちの内に宿って下さる霊によって、私たちは育てられ、
次第に 主にふさわしいものに造りかえられていくのです。
イエスによって救われた私たちを、主は神の子とし 神の家族として御国に迎え入れる、
栄光の道を与えて下さいました。罪の裁きも、死も、永遠の滅びも、恐れることはありません。
栄光に輝く主が共にいて、私たちの行く道を照らして下さいます。
感謝して、お祈りいたします。

 

 ノアの箱舟 と呼ばれる大洪水のエピソードはよく知られています。箱舟に入って助かったのは、すべての動物とノアとノアの妻、そして3人の息子たちとその妻。
教会にある絵本には、箱舟に哺乳類も爬虫類も昆虫も来て、ノア一家8人が世話しているところが書かれています。 なぜ、ノアの一家だけ助かったのか。
当時の地上は神の御心に適わない、大いに堕落した人ばかり。神が地上を見てどう判断されたか、そして何を決断されたかが書かれます。  ノアは神に従う無垢な人。ノア一家と地上に住む命あるものを守るため箱舟をつくり、それに入れ、と 神はノアに指示します。
雨が降り始める前から箱舟造りは始まりました。まだ何も起きていないのに舟を造る。
渇いた地面の上の箱舟に乗る、どちらにも主を信じる信仰が必要でした。
6章にも7章にもノアの気持ちは書かれません。ただ、神に命じられるまま「果たした」と書かれているだけです。大雨の音が、舟の外に居た人々の声や物音を、ノアたちから遠ざけたことを願うばかりです。なぜ、ノアの一家だけが助かったのか。なぜ、ノア一家は主の言葉を信じて行動できたのか。
 15節16節に、箱舟の設計が書かれています。3階建て。側面に戸口があり、明り取りの窓(隙間?)があり、動物たちを入れるために、区切られた部屋が沢山ある、木造の舟。
この舟には、進路を決める舵もありません。
舟が動くために必要な、風を受ける帆も 漕ぐための櫓や櫂も、
ペダルもエンジンもありません。広い窓もレーダーもありません。明り取りから少し外が見えるだけ。雨が振り込まないよう、ノアたちは舟に覆いをしました。
外は全く見えません。ただ浮くだけ。舟は沈みはしません。波の上を漂うだけ。
きょう、お読みいただいたヨハネの手紙一4章は、今の時代のことを言っているのか、と
思うものがあります。  偽預言者が大勢、世に出ている。 世のなかの多くの人が偽預言者の声を聞くけれど、神様のことや聖書の語る天国のことを聞かない人ばかり。
私たちは毎日のように詐欺電話の被害を聞き、注文していない商品の連絡を受け、個人情報や写真の流出に神経を尖らせます。どれが正しくて、どのメールには返事をしてはいけないのか。
自分の眼で見て、自分の手で触れたものさえも ホンモノ?と疑ってしまう時代。
自分の魂や命がどんな危険の中に置かれているか、箱舟の中のノアと同じか それ以上に、
私たちの毎日は雑音や不安に満ちています。 
  ヨハネは「確かめなさい」と言います。この手紙が書かれたころ、ヨハネの時代のイエスについてのウワサには、イエス・キリストは神ではなく人間だ、とか、預言者の一人だ、など、いろいろな説もありました。 人間イエスに神の霊が憑依して一時的に奇蹟ができた説や、イエスは人間ではなく霊魂だけで、生まれたのも十字架もそんな風味見えただけの幻 という説もありました。   でも、それではダメなのです。それは全人類の罪の贖いにはなりません。
霊魂だけのイエスでは、死の力にも滅びの力にも、勝つことはできません。 
悪意や自分勝手で暴力的な考え方で話しかけてくる者と、真実の愛で私たちを導く方と。
見分け聞き分け、惑わしから逃れるため、私たちは救い主の霊を選ぶ基準=鍵が必要なのです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」
 ノアの時代の人々は箱舟に目を向けませんでした。ノア一家が主なる神に従って、御言葉通り箱舟を造る間も、世界中から動物たちがその舟に向ってやって来た時も、誰一人 興味も関心も無かったのです。
 私たちも、ヨハネが手紙に書いた「世」にいます。一緒に働く人たちも、同じ町に住む人も、残念ながら まだ聖書にもイエスの福音にも 興味や関心のない人ばかり。
私たちの日常は、ノアの箱舟と似ています。詐欺のニュース、自然災害、戦争や経済の問題。どれも信仰の有る無しに関わらず直面する問題です。
だれも、自分の行く先も人生も完全に思い通りに動かせる人はいません。だれもほんの少し先の自分の運命を知る者はいません。
 ノアは信仰を通し語る主なる神に従い、洪水と嵐の中を生き延びました。 
神の愛を知り、導き手として信頼することができるか。それは命や魂の問題です。
ノアは箱舟に乗って、命も自由も進路も希望も力も、すべてを神の手の中に委ねました。
人生の問題に直面した時、ノアが何もかもを委ねたのは、全知全能の神です。
私たちを造り、私たちが持つ罪を知る方。私たち一人一人のために、イエス・キリストを地上に遣わし救いの道を開いた主です。
 箱舟は確かに、大揺れに揺れたでしょう。ノアたちも動物たちも、船酔いしたことはあったかもしれません。嵐の中、振り続ける雨の中で、またいつ地面に辿り着くかわからない水の上で、不安にならないわけはありません。 小さな明り取りからカラスやハトを飛ばした時の、
すがるような彼らの思いは痛々しいほどです。
でも、彼らは生き延びました。舟は新たにされた大地に着きました。
「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」私たちがまだ、神にもキリストにも関心を持たなかった時から、主は私たちに興味を持ち、愛して下さいました。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う
いけにえ として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
イエス・キリストの十字架が、私たち人間すべての罪のためだ、と信じ告白する者に、
神はご自身の霊を与えて下さいました。
愛しているから。ご自分のすべてを、聖霊によって私たちに与えて下さいました。
「あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。…あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」 
イエスを信じる者は、その人の内なる聖霊の力によって、神の言葉を聞き分けるのです。
愛によって命に繋がる道に導く、神の霊の言葉を信じて耳を傾けましょう。
お祈りいたします。