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「十字架の栄誉」

 

イエス様の十字架によって私たち人類の罪は赦された。教会では何度でも聞き、習うことです。
イエス様は神の子なのに人間になって下さった。イエス様は神の子だから罪がない。だから
イエス様は私たちの罪の身代わりになる事ができた。  これを聞くたび、思っていました。神様なら、神の子なら、十字架に架からなくてもよい方法を考えればいいのに。
神様なら、罪を犯さないように人間を造ればいいのに。
 きょうのヘブライ人への手紙5章は、大祭司の役割について書いています。
大祭司はイスラエルの神殿の最も奥の 神が来られる場所=至聖所に、年に1度 入ることのできる人です。大祭司は自分の身を清めた上で、さらに自分自身の罪を贖うための献げ物をした上で、決められた時に入って行くのです。 そして、イスラエルの民全員の 罪の贖いの献げ物を捧げて民を清め、さらに民の感謝の献げ物をするのです。
 やがて神が選んだ救い主が現れ、私たちの罪を完全に清めて下さる。イスラエルの民 他の民族からヘブライ人と呼ばれた人々は、救い主を待ち望んでいました。
きょうの箇所には、イエスが神によって選ばれ大祭司として、十字架の上で罪のための献げ物を捧げた、とあります。
 イエス・キリストは人間として、他の人間と同じように肉体を持って、生まれました。
十字架の上でも、神の子だからと言って苦しまなかったわけではありません。
むしろ7節「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」十字架の苦しみをすべて経験したのです。」
 教会学校で、口語訳聖書の言葉を唱えていました。当時はよくわからなかったのですが、
ピリピ人への手紙(新共同訳の フィリピの信徒への手紙)2章6-11節「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」という言葉でした。
イエスは自分が神の子、ということにこだわらず、私たち人間と同じように生きて下さった。
きょうの5章7節「御自分を死から救う力のある方に祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」 「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」。 神の子なのに、罪の身代わりになることを受け入れ、逃げることなく、神の子としての力も特権も全く使わず、罪の贖いの献げ物として自分自身の肉体を捧げ、罪による裁きの苦しみ全てを受けたのです。そして地上での、十字架の上での死 だけでなく、
魂が陰府の滅びに落ちることによって、人間の罪の裁きの結果をすべて受けた。
神から与えられた救い主としての役割を従順に、果たされたのです。
私たちが救われたのは、罪の無い神の子の身代わりがあったから。それだけでなく、
神から与えられた贖い主の役割を完全に成し遂げるほど、イエスが従順だったから。
私たちの魂の完全な救いはイエスの魂をかけた完全な従順への、
主なる神からの栄誉であり応答なのです。
 きょうの箇所にメルキゼデクという名があります。創世記14章で、メルキゼデクはイスラエル人の祖先アブラハムを迎えました。
この人を創世記は「いと高き神の祭司でサレムの王」と書いています。
ヘブライ人への手紙は7章でこの人について説明しています。
メルキゼデクという名前が「義の王(正しい王)」という意味なのです。そして、この人の国の名はサレム。「平和」という意味です。(エルサレムは エル=神の サレム=平和という意味)
詩編110篇に「あなたはとこしえの祭司 メルキゼデク(わたしの正しい王)」とあります。
悪いものは悪い。罪を正しく裁くことなく赦すとすれば、それは赦した者が正しくないことになります。罪はイエスの肉によって正しく裁かれました。
イエス・キリストは世の罪を取り除く救い主として、神の義を実現した方です。
クリスマスの箇所として用いられるイザヤ書9章「ひとりのみどりごがわたしたちのために
生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる」
メルキゼデクはいと高き神の祭司であり、義の王であり 平和の王。
神はイスラエル人=ヘブライ人たちの祖先の記録を与える時、この祭司を登場させました。
義と平和の王メルキゼデクは、後に遣わされる救い主、イエス・キリストの性質を現しています。彼はアブラハムを祝福するために、パンとぶどう酒を持って来ました。
イエスは十字架の前夜、パンとぶどう酒によって聖餐を制定されました。
アブラハムはイスラエルの祖先であり、神の友、信仰者の父と呼ばれます。アブラハムは
この時、土地の王たちとの戦いに勝って帰って来たところでした。
きょうお読みいただいた詩編54篇で、ダビデは自分の命を狙う者を絶やし滅ぼして下さい、と祈り願います。彼は自分の敵についてこう言っています。「彼らは自分の前に神を置こうと
しないのです。」
神と人とを隔てる罪。聖書の時代の言葉で、罪は「的外れ」とか「あるべき場所に無い」という
意味の言葉で表されます。 神は人を創造される時、神のかたちに造られました。
人間は神と向き合い、神と共にあるものとして造られたのです。
「自分の前に神を置こうとしない」神に造られた者でありながら、
まるで神など いないかのように生きる。それが人間の罪です。
 ダビデは神に従う自分と争う人々を、滅ぼして下さいと祈りました。
イエスは滅びの道を歩む人々のために、神から与えられた御業を従順に行いました。
そして、救い主として 神の小羊として 完全に民を罪から贖う献げ物をする大祭司として、
苦しみ泣き叫び、人間を招き入れる道を、神からの栄誉としてお受けになりました。
神はイエス・キリストによって、人間の罪を完全に滅ぼされました。
主イエスの従順に学びましょう。私たちにはもう、神の国への道が開かれているのです。
お祈りいたします。

 

 ノアの箱舟 と呼ばれる大洪水のエピソードはよく知られています。箱舟に入って助かったのは、すべての動物とノアとノアの妻、そして3人の息子たちとその妻。
教会にある絵本には、箱舟に哺乳類も爬虫類も昆虫も来て、ノア一家8人が世話しているところが書かれています。 なぜ、ノアの一家だけ助かったのか。
当時の地上は神の御心に適わない、大いに堕落した人ばかり。神が地上を見てどう判断されたか、そして何を決断されたかが書かれます。  ノアは神に従う無垢な人。ノア一家と地上に住む命あるものを守るため箱舟をつくり、それに入れ、と 神はノアに指示します。
雨が降り始める前から箱舟造りは始まりました。まだ何も起きていないのに舟を造る。
渇いた地面の上の箱舟に乗る、どちらにも主を信じる信仰が必要でした。
6章にも7章にもノアの気持ちは書かれません。ただ、神に命じられるまま「果たした」と書かれているだけです。大雨の音が、舟の外に居た人々の声や物音を、ノアたちから遠ざけたことを願うばかりです。なぜ、ノアの一家だけが助かったのか。なぜ、ノア一家は主の言葉を信じて行動できたのか。
 15節16節に、箱舟の設計が書かれています。3階建て。側面に戸口があり、明り取りの窓(隙間?)があり、動物たちを入れるために、区切られた部屋が沢山ある、木造の舟。
この舟には、進路を決める舵もありません。
舟が動くために必要な、風を受ける帆も 漕ぐための櫓や櫂も、
ペダルもエンジンもありません。広い窓もレーダーもありません。明り取りから少し外が見えるだけ。雨が振り込まないよう、ノアたちは舟に覆いをしました。
外は全く見えません。ただ浮くだけ。舟は沈みはしません。波の上を漂うだけ。
きょう、お読みいただいたヨハネの手紙一4章は、今の時代のことを言っているのか、と
思うものがあります。  偽預言者が大勢、世に出ている。 世のなかの多くの人が偽預言者の声を聞くけれど、神様のことや聖書の語る天国のことを聞かない人ばかり。
私たちは毎日のように詐欺電話の被害を聞き、注文していない商品の連絡を受け、個人情報や写真の流出に神経を尖らせます。どれが正しくて、どのメールには返事をしてはいけないのか。
自分の眼で見て、自分の手で触れたものさえも ホンモノ?と疑ってしまう時代。
自分の魂や命がどんな危険の中に置かれているか、箱舟の中のノアと同じか それ以上に、
私たちの毎日は雑音や不安に満ちています。 
  ヨハネは「確かめなさい」と言います。この手紙が書かれたころ、ヨハネの時代のイエスについてのウワサには、イエス・キリストは神ではなく人間だ、とか、預言者の一人だ、など、いろいろな説もありました。 人間イエスに神の霊が憑依して一時的に奇蹟ができた説や、イエスは人間ではなく霊魂だけで、生まれたのも十字架もそんな風味見えただけの幻 という説もありました。   でも、それではダメなのです。それは全人類の罪の贖いにはなりません。
霊魂だけのイエスでは、死の力にも滅びの力にも、勝つことはできません。 
悪意や自分勝手で暴力的な考え方で話しかけてくる者と、真実の愛で私たちを導く方と。
見分け聞き分け、惑わしから逃れるため、私たちは救い主の霊を選ぶ基準=鍵が必要なのです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」
 ノアの時代の人々は箱舟に目を向けませんでした。ノア一家が主なる神に従って、御言葉通り箱舟を造る間も、世界中から動物たちがその舟に向ってやって来た時も、誰一人 興味も関心も無かったのです。
 私たちも、ヨハネが手紙に書いた「世」にいます。一緒に働く人たちも、同じ町に住む人も、残念ながら まだ聖書にもイエスの福音にも 興味や関心のない人ばかり。
私たちの日常は、ノアの箱舟と似ています。詐欺のニュース、自然災害、戦争や経済の問題。どれも信仰の有る無しに関わらず直面する問題です。
だれも、自分の行く先も人生も完全に思い通りに動かせる人はいません。だれもほんの少し先の自分の運命を知る者はいません。
 ノアは信仰を通し語る主なる神に従い、洪水と嵐の中を生き延びました。 
神の愛を知り、導き手として信頼することができるか。それは命や魂の問題です。
ノアは箱舟に乗って、命も自由も進路も希望も力も、すべてを神の手の中に委ねました。
人生の問題に直面した時、ノアが何もかもを委ねたのは、全知全能の神です。
私たちを造り、私たちが持つ罪を知る方。私たち一人一人のために、イエス・キリストを地上に遣わし救いの道を開いた主です。
 箱舟は確かに、大揺れに揺れたでしょう。ノアたちも動物たちも、船酔いしたことはあったかもしれません。嵐の中、振り続ける雨の中で、またいつ地面に辿り着くかわからない水の上で、不安にならないわけはありません。 小さな明り取りからカラスやハトを飛ばした時の、
すがるような彼らの思いは痛々しいほどです。
でも、彼らは生き延びました。舟は新たにされた大地に着きました。
「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」私たちがまだ、神にもキリストにも関心を持たなかった時から、主は私たちに興味を持ち、愛して下さいました。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う
いけにえ として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
イエス・キリストの十字架が、私たち人間すべての罪のためだ、と信じ告白する者に、
神はご自身の霊を与えて下さいました。
愛しているから。ご自分のすべてを、聖霊によって私たちに与えて下さいました。
「あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。…あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」 
イエスを信じる者は、その人の内なる聖霊の力によって、神の言葉を聞き分けるのです。
愛によって命に繋がる道に導く、神の霊の言葉を信じて耳を傾けましょう。
お祈りいたします。