イエス・キリストが復活した、という話が一番難しい。と言われます。パウロがコリントの信徒への手紙を書いたのは西暦54年頃。イエスの十字架から20年ほど過ぎた頃です。
パウロも他の使徒たちも、地中海沿岸の国々への伝道を行ってきて、いくつも教会と呼ばれるグループができていました。
イエスの弟子たちにとっても、弟子たちと共にいた人たちにとっても、イエスの復活は彼らが体験した事実でした。パウロも、キリストのための活動を始めたのは、使徒言行録9章の
ように、復活したイエスに出会ったからでした。
12弟子と呼ばれた使徒たちは実際にイエスがいなくなった空の墓を見ました。イエスは彼らのところに何度か現れ語り合いました。でも彼らも、初めは「亡霊だ」と恐れていたのです。
本当にイエスが復活した、と信じられい彼らのため、イエスが焼いた魚を食べてみせた、と
ルカが書いています。
パウロにも他の使徒たちにも、イエスの復活は疑う余地のない事実です。でも、コリントの人たちは、そんなありえないことをわざわざ、話す必要は無いでしょう、という冷めた反応でした。今の私たちが教会の中と外で感じる温度差と、似ています。
イエス・キリストが神から遣わされた神の子 救い主で、確かに人間として生活し、
罪の無い方が十字架に架かって死んだ。その死は私たちの罪を赦すための、罪の贖いの供え物だった。イエスの十字架は多くの人も見ていた。それが判っていれば良いのでは?
何もわざわざイエスが生き返った、なんて亡霊かオバケのような話をしなくても。
その話に何の意味があるのですか?同じ反応を、現代人からも、受けることはあります。
確かに罪の贖いは、イエスの十字架の死で完了します。しかし、イエスが死んで陰府に降り、滅んで終い、では、神はイエスを「死」の中に置き去りのまま、陰府に捨てたままになります。それでは神の子も死を乗り越えることはできないことになります。
命も魂も生も死も、神が創造された。それなのに。神が神の子イエスを死から取り戻せないなら。私たちはどんなに良い人、正しい人であっても、死んだらすべてが終わる。将来も、永遠の神の国への希望もない ということになります。
パウロは使徒言行録13章でこう語っています。
「神はイエスを死者の中から復活させて下さったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。」 イエスは、自ら目覚めたのではありません。
もしイエスご自身がご自分の力で復活できるとしたら、
十字架での死も、葬りも、イエス自身の考えや計画、ということになります。
それでは ただのお芝居です。
ご自分の力で ご自分の思ったタイミングで復活し帰ってくることができるなら、犠牲を払ったとは言えません。 身代わりの罪の贖いも ないことになります。
イエス・キリストの生涯は、すべて主なる神の御業。主なる神の御計画。主なる神の御力によるものです。イエスは自分自身の力では克服することのできない死を、十字架の上で遂げました。
死も滅びも、主なる神が定めたこと。もし神がご自分の勝手で、イエスが死なないようにしたなら、 神は 義の方とは 正しい方とは 言えなくなります。
父なる神は独り子イエスの苦しみ 悲しみをよくご存知です。その神が、
イエスが自力では脱出することのできない 死と 滅びに、陰府の苦しみに独り子を落とした。
あえて、罪の無い神の子を、神ご自身が 切り捨て 滅ぼした。
神ご自身が、ご自分の愛する者を滅ぼす痛みを請け負って下さった。
それが、イエス・キリストの十字架による全人類の罪の贖いの業 なのです。
私たち人間の人生には、不安と恐れが付きまといます。人間には時間の限界と場所の限界があります。時間の限界とは、命の長さのこと。私たちは限られた人生の中で、置かれた場所で生きることしかできません。
イエスはヨハネによる福音書11章で、兄弟ラザロの死を嘆くマルタとマリアに言われました。
わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエスはご自分の死と復活を何度も、弟子たちにも語り教えました。
そしてイエスの言葉を聞いた人々が、甦ったイエスを見、イエスと会い、言葉を交わしました。
イエスは神の力によって、ご自分の限界を超えました。
神はイエスを復活させました。死と滅びの力を超える力を、イエスによって贖われた全ての人に与えたのです。イエス・キリストはイエスを信じた人々の希望になりました。
エレミヤは捕囚期のイスラエルの預言者です。イスラエルは主によって成立した民です。
主なる神はまず、アブラハムを呼び出し、その子孫ヤコブにご自身を現わしイスラエルという名を与えました。エレミヤ書31章で、神はイスラエルをもう一度、固く建てると言われました。
イスラエルが、忠実で誠実な民だから、ではなく、
神が 彼らを愛したから。愛し慈しんで、苦しみの中でも守り、導いてきた。
イスラエルは神が神の民として育てた民です。
31章6節、再建されたイスラエルは呼び掛ける声を聞きます。
「立て、我らはシオンへ上ろう。 我らの神、主のもとへ上ろう」
戦いと不信仰から立ちあがった民を、神はとこしえの愛によって導き建て直すと言われました。
神は神の小羊イエスの血によって、新たに神の民と契約を交わされました。
イエス・キリストを信じる者が新しいイスラエルとして、イエスの十字架による契約に加えられたのです。
エレミヤはイスラエルが喜びの賛美をしながら、祝い踊るさまを描きました。
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
復活の朝の喜びは、神の民の出発の時です。
新しい神の民は、贖い主イエスと共に死の門を通り抜け、神の国への旅を始めるのです。
義と愛の神の導きを信じて、祝いましょう。イースターおめでとうございます。
お祈りいたします。
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