イエスは山上の説教と呼ばれる中で言われました。「まず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 でもコリントの信徒への手紙第一
15章は「血と肉は神の国を受け継ぐことはできない」と言います。
私たちは血液の流れる肉体を持って生きています。この肉体には命の限界があります。
私たちが死を迎えると、私たちの体は朽ち、やがてこの世から消えます。
私たちは天地万物を創造した、ただ一人の神を信じています。神は霊の体を持つ聖にして善なる方です。神ご自身は死ぬことの無い永遠なる方です。神の国も、終わりの無い永遠です。
神は私たちを土の塵から造られた、と、聖書の創世記に書いてあります。
神と私たちは全く違います。私たちは限界のある血と肉を持つ 終わりのある存在です。
その私たちに、神の子イエスは「まず、神の国と神の義を求めなさい」そうすればあなたが必要とするすべては、神の国と共に 加えて 添えて 与えられる、と言われました。
血と肉は神の国を受け継げないのに。 どうやって。
コリント第一15章51-52節は 限りある存在である私達が、限界の無い 朽ち無い
永遠なる者になる。そこに神秘がある、と言います。
15章53節に さらに不思議な言葉が出て来ます。「死ぬべきものが死なないものを 着る」
日本人はよくお風呂に入る民族だそうです。コロナ禍で帰宅しすぐシャワーという人も増えたでしょう。着替える「着る」 それなら、まず 体をきれいにして、と思う。
死ぬべき 罪も限界もある者が、その罪も限界もそのまま その上から「着」るんですか?
初めてこの箇所を読んだ時、洗わないの?と思ったのを覚えています。
54―55節「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」
限界のある者の死が、「死なない永遠」にのみ込まれる。
「やがて朽ちる土の塵」が 「朽ちない永遠」に完全に包み込まれる。そして、
限界のある私達が、死に勝利する。 どうして そんなことが起きるのか。
56節「死のトゲは罪」とあります。 罪ある者を、永遠なる者がのみ込む。
トゲのあるものをそのまま、トゲの存在がわからなくなるほど完全にのみ込む。
それはのみ込む側には痛いことなのでは?
神が私達に死に対する勝利を与えたのは「主イエス・キリストによる」と57節にあります。
私達が罪の汚れも死という限界も持ったまま、永遠の神の子イエスを 「着る」
神の子イエスによって、私達は罪を持ったまま、のみ込まれ完全に包まれる。
主イエス・キリストの十字架。 あの苦しみの理由は、ここにあるのです。
十字架の主イエスは、私達の罪を完全に癒すために、罪の鋭いトゲごとのみ込み 赦して下さいました。風呂でもシャワーでも洗い流せない、私達の心と魂が抱える 死のトゲ。
神の愛を受け止められない私たちの心は、まるでハリネズミのよう。
神と私たちを隔て遠ざけるトゲを、救い主イエスは完全に受け止め引受けて下さいました。
イザヤ書51章は、廃墟となっていた主の民に主の慰めと救いを語ります。
神の正しさとは。神の聖さとは。主なる神とは どのような方か。
イスラエルにはイザヤの時代まで、300年以上続く王国がありました。民は自分たちが王や
軍隊に守られていると思いましたが、国は滅び、民の多くは捕囚となりました。
主は、あなたは何者か思い出せ、と言います。イスラエルの祖先アブラハムはただ一人、主に呼び出され旅立ちました。アブラハムの妻サラは不妊に悩み、ようやくイサクを与えられました。たった一人からイスラエルは始まりました。主なる神の導きが無ければ、存在さえしない民です。
イザヤを通しアブラハムを祝福された御業を示された神、主は、民の一人一人に語られました。
主は主の前に一人であるあなたをも、アブラハムと同じように祝福する、と。
背きの罪によって、主の民は王も民も祖国から離れたところに居ました。
主は民のそばに 共にいて正義を行い、本来あるべき場所へ 主の民も 諸国の民も、回復して下さる。裁きと正義は回復の力です。裁きは人の光として輝き、民も国々にも希望となるのです。
いま、彼らの故郷は戦火で廃墟となっていました。
「天が煙のように消え、地が衣のように朽ち 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても」
6節 災害や思いがけない不幸があっても、主の眼には廃墟は死でも終わりでも滅びでも無いのです。ひとりアブラハムを祝したように主は廃墟からでも命を始めて下さるのです。
「わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業が絶えることはない。」
主なる神に望みを置き、主の御業への期待を止めるな、と主は言われます。
主の救いは永遠に、神の国に至るまで 続くのです。
ニュースも沢山の情報も、私達のまわりに溢れています。でも明るいニュース、希望を持てる情報は残念ながら、稀です。自分についても、今の自分は理想の自分と言うのは難しいでしょう。嫌だ、悩み、ダメ!な記憶は、良かった嬉しいより思い出すかもしれません。
私達は主イエスの復活を祝いました。救い主イエス・キリストによって、私達の死のトゲは
のみ込まれました。神はイエスの十字架によって、私達の罪の裁きを完了されました。
神の裁きによって、私達は神の愛を受けられる者に回復されました。
「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、みな加えて与えられる。」
主イエスを復活させた神は、罪赦された私たちを、
イエスと共に神の国を引き継ぐ者にして下さいました。
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
希望を持って、与えられたそれぞれの役割を主と共に生きていきましょう。
お祈りいたします。
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