「わたしがあなたがたを愛したように」互いに愛し合いなさい。
イエスが私たちを愛したように人と人が愛し合うなら、イエスは私たちを友と呼ぶ。
では、愛する とは どんなことでしょう。
愛の章と呼ばれるコリントの信徒への手紙一 13章は、愛が無ければ預言も信仰も、その人の行いも何の益もないと言います。愛するとは、相手を自分自身のように大切にすること。
礼儀正しく相手を認めること。忍耐強くありのままの相手を受け入れ、自分の利益を求めないこと。愛する、と好きになるは違います。極端に言えば、嫌いな相手も愛することはできます。
相手を自分の道具として便利に使おうとするのは 愛することから大きく外れています。
愛することは 崇め奉ることではありません。恐れることでもありません。
箴言17章の「どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる」
神の友アブラハムは神に愛され、多くの民族の祖先となりました。
神に遣わされたモーセは、奴隷だった民をエジプトから脱出させ、約束の地へ導く役割を与えられました。預言者エリヤは神に逆らう王に命を狙われながら、神の言葉を伝えるよう命じられました。聖書は彼らの弱さ愚かさ、怒りや恐れもそのまま、命がけで神の命令を守り、
神に向き合う姿を書いています。
彼らは人間ですが、神と共に民の命、国の行く末を見つめて、神の側に立ちました。
今も人々は天災や戦争に巻き込まれています。多くの人の命がこの世から消え、予測のできない事件や事故で生活に困難を抱えます。私たちは祈ります。
私たちにはこの世で、与えられた能力の範囲で見えることしか わかりません。
失われてしまった命や町や建物に、私たちは敗北感や自分の無力さ現実の理不尽さを感じます。
神は永遠を見ておられます。私たちの知らない、この世から取り去られた人々の永遠は神の手の中にあります。神と共に生きた神の友となった人々は、神と共に永遠を目指しました。
アブラハムもモーセもエリヤも、この世で永遠を見る目は与えられませんでしたが、神は彼らに永遠を信じる信仰を与えられました。
イエス・キリストは弟子たちの前で一度、姿が変わりました。
3つの福音書がその時の事を書いています。マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章。
ペトロ・ヤコブ・ヨハネの3人だけを連れて山に登ったイエスは、彼らの前で輝く神々しい有様となりました。 その時、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合ったのです。
何を語り合ったのか。どうして弟子たちはそこにモーセやエリヤが居るとわかったのか、
不思議は山のようにあります。その時、モーセとエリヤはまさに 神の子イエスの友として、
イエスと語り合いました。
申命記6章で、モーセとイスラエルの民はシナイ山で 神から掟と法=律法を与えられました。
6章4-5節は、この後 イスラエルで律法が読まれる時、必ず叫ばれた言葉です。
シェマ イズラエル「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」掟の基礎はこの言葉と
13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。
この掟のため、2つの「してはならない」
「他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。」 「主を試してはならない。」と
1つの「しなさい」
「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、 主の目にかなう正しいことを行いなさい。」が与えられました。
エジプトから呼び出された民は、荒野で自分たちの神 主と契約を結びました。
神は民の日常から不安の芽を取り除き、民がご自身と正しい関係を築き、幸せになる方法を
教えました。 彼らを導いた唯一の主を 愛し・畏れ 主に仕え・主の御名によって=主を自分の決断の証人として 誓う。
他の神々に従う無礼な不義理は、証人に対する契約違反です。
出エジプト記17章で飲み水を要求した民が「果たして、主は我々の間におられるのか」と
主を試した(マサ)のように、
主を試すことは主を疑うこと。 不信仰 という罪です。
彼らが荒野で主を試したのは、飲み水の不安があったからです。
貧しさや 安全安心が確信できない不安は、人を追い詰め 節度を失わせます。
主は民の先祖である アブラハム・イサク・ヤコブに誓ったように、
彼らを約束の地に導き入れ、敵をことごとく 追い払うと約束されました。
主は民のために、「あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足する」よう 準備されました。
主を疑い、主にのみ仕えよ、という掟を破るなら、
「あなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、
地の面から滅ぼされないようにしなさい。」6章15節
熱情の神は「妬む神」とも訳されます。ヤコブの手紙4章の引用のように天地万物を創造された神は「わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛す」る神。
私たちをご自分のもとに呼び集めるために、イエス・キリストを十字架に架けるほど
神の愛は、神を殺すほどに激しく熱いのです。
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」とイエスは言われました。僕ではなく友。僕は自分の主人が何をしているか知らないから。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
私たちの幸せを願い一人一人の日常を祝福する神は、私たちを友と呼び 対等な人という立場に降られました。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
神である主の信頼を得て、共に永遠を目指す旅を続けるために。
主が愛して下さったように、私達も互いに愛し合いましょう。
お祈りいたします。
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