百人隊長は心配していました。大切な部下が病気です。死んでしまうかもしれない。
どうしたら助けられるか。できる限りの努力をしよう、と焦る百人隊長は知らせを受けます。
ナザレのイエスがカファルナウムに来ている。 「百人隊長は、(イエスのところに)ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」
この隊長は、ユダヤ総督ポンテオ・ピラトの部下だったと思われます。
カファルナウム近郊で軍人として、この土地に住むローマ人貴族を見張り、ガリラヤの地元の住民を守り、また監視する。本国ローマから遠く離れた地で、隊長は与えられた役割を忠実に行いました。 権力や武力に頼るのではなく、遣わされたガリラヤの人々に誠実に向き合う
彼は上司の信篤く、仕事の上では成功者です。けれど ユダヤ人の地では、彼はローマ人であり、神の約束の地を踏み荒らす罪深い異邦人の一人です。 でも、
彼はユダヤ人たちに信頼され、ユダヤ人が暮らすこの土地で神を信じ、神を畏れ生きています。ユダヤ人の長老たちは彼を信頼していて、部下の病に心乱れる彼に寄り添っています。
長老たちは隊長に指示されるままイエスに会いに行き、隊長のために隊長の部下のために、
熱心に率先して、癒しを行ってくれとイエスに願います。
「あの方は、そうしていただくのにふさわしい方です」
イエスがもうじき到着する、と彼は聞きました。彼はイエスならば部下の病を治せる、と
信じていました。今、彼は長老たちを遣わした時より落ち着きを取り戻しています。
彼は急いで、信頼する友人にイエスへの言伝を頼みました。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。」
ふと、彼は自分の傲慢に気付いたのです。大いなる神の業を行う神から遣わされた尊い方を、自分の家に呼びつけて良いのか?自分は神の子を家に招くことができるほどの立場だったか?イエスの御力は必要です。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 わたしの言葉ですら、私の兵隊を思うままに動かせるのです。
イエスよあなたの御声一つで、私の部下は癒されます。
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」のです。
けれど、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
ルカ福音書 8章で長血を患う女性を癒した時、18章で盲目の人の目を開いた時、
イエスは言いました。「あなたの信仰があなたを救った」
百人隊長の信仰は神の御手を動かしました。この時のことを マタイもヨハネも書いています。イエスが隊長の信仰を褒めたその時、部下は癒されました。
信仰があっても、理不尽な命の危機を経験することはあります。
捕囚となった預言者ダニエルは、ペルシア王ダレイオスに仕えていました。
「ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく」、王のダニエルへの信頼は他の誰より篤く、彼を妬む人々はダニエルを追い落とす口実を捜します。彼らがみつけたのはダニエルの信仰。
王以外に祈り願う対象を持つことを王への反逆罪と判断する、という法律に王が署名し、施行されました。
ダニエルも、新しい法を知っていましたが、自分の神を信じ礼拝することを止めません。神の前に誠実に生きることを止めなかったのです。妬む者たちの計画通り 王の署名した法は動き、
ダニエルは捕らえられ、飢えた獅子=ライオンのいる洞窟に投げ込まれました。
ダニエルの経験は、十字架前夜のイエスとよく似ています。イエス・キリストは全くの無実でしたが、仕組まれ計画された裁判で、神を冒涜したと偽証され有罪となりました。そして、十字架に架かられたのです。
イザヤ書53章 「屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。」
ダニエルは神に対しても王に対しても誠実で忠実な者であり続け、反論せず イエスのように無抵抗で、誠実でした。 ダニエルが礼拝し続けた神は彼の信仰に 誠実に応えました。
神は飢えたライオンの口を閉ざし、ダニエルは 傷1つ負うことなく、王の前に戻りました。
まるで、十字架で息絶えたイエスが 墓から出て弟子たちの前に現れた時のように。
ダニエルも百人隊長も、神に対しても人に対しても誠実に行動しました。
彼は自分自身の職務にも忠実で誠実でした。
彼のところにイエスを連れて来た長老は、現代の教会の教会員や役員にあたります。
イエスは長老と共に行動しました。
長老たちにとって、隊長は敵国ローマの軍人でしたが、その行動と信仰によってイエスに推薦しました。外見ではなく、内面の信仰を見たのです。
そして、隊長は自分の大切な友人を信頼し、イエスに自分の言葉を伝える役割を任せました。
隊長の友人たちはイエスに出会い、彼らは友人である隊長の信仰をイエスに語りました。
百人隊長はイエスと会っていません。彼はただ信仰によってイエスに近づき、イエスは御業によって彼に応えました。
現代の私たちも百人隊長と同じくイエスを肉眼で見ていません。イエスを見たことの無い人々の群が、教会をつくり、信仰が伝えられています。私たちは聖書で直接イエスと出会った人々が書き残した言葉に触れ、救いの歴史とイエスの福音を知ることができます。
救い主イエス・キリストは私たちに祈りを教え、私たちが互いの信仰を支え、
人に、人を神のもとに導く力を与えて下さいました。
長老たちが百人隊長を信頼し、イエスに推薦したように、
百人隊長が友人たちを イエスと出会う経験に導いたように、
私たちは聖書から主の御声を聞き祈り、イエスに誠実に信頼し育てられます。
「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
お祈りいたします。
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