イエスの墓を訪れた婦人たちは、天使に出会ってこう言われました。
「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」
イエスも彼女たちの前に現れて、こう言われました。
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
弟子たちがガリラヤの山でイエスの前にひれ伏したこの日まで。マタイによる福音書は復活の主の40日間をほとんど書いていません。 マルコも ルカも、ヨハネも、弟子たちの前に復活したイエスが現れた事を書いています。
弟子たちがイエスの十字架のもとに行きもせず隠れていた部屋で、復活したイエスは真ん中立ち彼らに話しかけました。 トマスはイエスの手や脇腹の傷をご自身から示されました。
エマオに向かう道で二人の弟子は、宿に着くまで自分たちと語った人がイエスだと気付きませんでした。ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしたペトロは、岸にいる人がイエスと気付いて、泳いで会いに行きました。イエスは確かに復活し、自分たちの前に現れました。
「復活されたイエスに出会った」ことで驚く者はすでにいません。
山に集まって来た弟子たちにイエスは言われました。
「あなたがたは行って」 立ち止まるな。誰か来るかと待っているな。行け、動け。
「すべての民を」 主の律法を守るユダヤ人だけでなく、すでに神を信じ従う者だけでなく、
良い人、正しい人でなくても、犯罪者でも、異教徒でも。すべて には 制限はありません。条件もありません。
「わたしの弟子にしなさい」 あなたたちの弟子にではなく、イエスの弟子にしなさい、です。
では、弟子とは何でしょう? 福音書から見てみましょう。
ヨハネによる福音書13:35「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」憎み合い、互いに相手を蹴落とそうとするのではなく、競い合うとしても互いに心にかけ、受け入れあう愛によって結ばれた関係にある者たち。
ルカ14:27「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」罪も課題も弱さも、自分自身のものとして背負い、イエスに従う者。
もし自分の罪も弱さも全く自覚せず、向き合っていないなら、イエスが十字架によって与えて下さった罪の贖いの恵みを喜ぶことも感謝することも無いでしょう。十字架に感謝が無いなら、イエスの弟子かどうか以前に、イエスと何の関係も無い者になります。
ルカ6:40「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、
その師のようになれる。」 弟子になる。それはイエスが十字架で解決して下さった罪も、
イエスの死による救いも、自分自身の事として感謝しイエスに従い、イエスに倣い
イエスに近づいて行く者のことを言うのです。
マルコ4:33-34には、イエスは人々には「聞く力に応じて…多くのたとえで御言葉を語られた。…御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」。弟子はイエスから、真理を聞く力を与えられる者なのです。そして、
ヨハネ15:8「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、
わたしの父は栄光をお受けになる。」私たちがイエスの弟子となって従うなら、そこに父なる神が働かれる。弟子になる。それは私たちの人生を通し、神に栄光をお返しする生き方なのです。
すべての民を、それぞれの意志と目的と決意で「わたしの弟子にしなさい」 そして、
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」 洗礼を受けるために、弟子となった人々は
神と人との前で自分の信仰を告白しなくてはなりません。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」
十字架による死と復活を通して、イエスは神の子として権威を持って、
すべての民をわたしの弟子に と イエスは命じられました。
すでに復活したイエスに驚かなくなった人々。でも、マタイはイエスにひれ伏した人々の中に、「疑う者もいた」と書いています。復活の主に出会っても、疑うのです。
私たちの語る福音が、受け入れられるとは限らないのも仕方ないことでしょう。
詩編105篇は、イスラエルが如何に導かれて来たか、神の御業が如何に民と共にあったか。
小さな、ほんの ひと家族の神の民を、主は守り育てて来られました。
イスラエル民族を育てるために、主は飢饉をも用い、
ヨセフが、苦しみの中を通されながら、自分の家を助ける者になったこと。
彼の苦しみは 彼の父の家が生き延び、大いなる民となることに繋がりました。
民はエジプトで苦しみ、脱出してからも苦しみながら旅を続けました。
でも主は彼らが滅ぶことを赦さず、民は自分たちを導いて下さった主に従い契約を交わし、
主の民となりました。
ただ一人奴隷に売られたヨセフは救い主の人生を示す予兆です。 イエス・キリストは神の独り子として地上に降り、苦しみの中ですべての民の罪を贖われました。
そして、主に呼び出されてエジプトを脱出したイスラエルの民は、イエスの血によって救い出された私たちの信仰生涯をあらわすものです。 危機を逃れ救い出された私たち。
救われ罪贖われても、私たちの人生には、荒野を旅した民のように 苦しみ悩み、敵に囲まれる体験が人生の限りついて来ます。
わたしたちのまわりには目に見える助けや あてなりそうな知恵が溢れています。
わかっているのですが。
民に毎日マナを降らせ、雲の柱 火の柱で守って下さる神こそが、真に依りすがるべき主だ、と。 荒野の民は長い年月をかけて、主の律法に生きる民となりました。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主イエスは言われました。
命じられ 自覚も考えも無しに従う信仰を、主は求めません。
守るよう教えなさい。 すぐにできるようになるわけではない。イエスは急がれません。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
永遠を約束される主は、片時も私たちから離れることなく、
守り 導き、育て 共にいて下さる神です。
お祈りいたします。
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