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「わたしの言葉で」

 

 

 きょうは聖霊降臨祭。ペンテコステとは五旬節 「五十日目のお祭」のこと。

過越しの祭の次の日曜日:初穂の祭から7週目 旧約聖書ルツ記に書かれた刈入れの祭です。

ちょうどユダヤ教の初穂の祭の日にイエス・キリストが復活されましたから、キリスト教でもイエスの復活から50日目となります。使徒言行録1章3節「イエスは苦難を受けた後…四十日にわたって彼らに現れ」弟子たちの見ている前で天に昇られました。

弟子たちはイエスに「エルサレムを離れず…父の約束されたものを待ちなさい」と命じられ、

イエスと最後の晩餐を行った家でイエスを信じる仲間たちと共に「熱心に祈っていた」のです。

 激しい風が吹いてくるような音が聞こえました。風を感じたのではありません。

この音と共にそれは、家中に響き充満しました。音に驚いた彼らは炎のような舌が自分たち

一人一人に留まったのに気づきました。

この時、弟子たちのうち誰ひとり、自分から行動している人はいません。

「すると、一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままにほかの国々の言葉で話しだした。」 

驚いて、エルサレムに集まって来ていた大勢の人々が集まって来るほどの物音を立てて、

聖霊はこの家に降りました。この家にいた人々は聖霊が語らせるままに、聖霊に導かれ

されるがままに 語り出しました。

誰も、自分が何を語るか準備していた人はいません。内容を考えた人はいません。彼らは皆、ガリラヤからエルサレムにやってきた人で、ほかの国の言葉を知っている人も選んで話した人もいません。 自分で話している言葉を頭では理解できなかったのではないかと思います。  そこに集まっている人々の故郷の言葉で、そこに集まっている人が理解できる話し方で、

そこに集まっている一人一人に届くように、

聖霊が彼らの内に語る力と言葉とを与え、彼らを通して 聖霊自らが語っておられたのです。

 きょうの旧約聖書は有名なバベルの塔の箇所です。

彼らはあの洪水を生き延びた、ノア一家の子孫です。彼らは先祖が経験したような災害で自分たちが滅びることをとても恐れていました。

彼らが移住したシンアルの平野は、上質の粘土の山地として後に有名になる所です。ここに来るまでに、 人々は石ではなく煉瓦を使う建築方法を身に着けていたようです。もしまた洪水が起きても、生き残れるようにしよう。私たち日本人も地震や津波を経験し、建築方法や場所など色々な知恵を得ました。私たちだから、彼らの考えを理解する事はできます。

 皆で一緒にいれば、一人ではできないことができる。煉瓦とアスファルトで、洪水が来ても生き残れる町を造ろう。造り始めてみると、この大きな事業はどんどん進みました。

素晴らしい建物が出来て来て、彼らはその建物に夢中になりました。

この塔なら、天にも届くんではないか?

こんな素晴らしいものを造った我々は、地上で有名になるんではないか?

自分達は一緒に居れば、神に近づくこともできるに違いない。バラバラにならず、一緒に居られるようにしよう。

 この箇所で注目して頂きたいのは5節です。「主は降って来て…この町を見て」

彼らは 天の神にも届くほどの塔を建てた!と喜んでいましたが、主は彼らの塔のある町を

見るために、「降って」来られたのです。

人と人の繋がりによって神のようになろうとする彼ら。主はこの塔を破壊はしませんでした。

主は彼らの言葉を混乱させました。彼らは互いの言葉が聞き分けられなくなりました。

彼らが急に別々の言語を話し出した と聖書は書いていません。

言葉を混乱させる。話す力だけでなく、聞く力にも主の御力が働いたのかも知れません。

後にカナンと呼ばれるこの土地の中でも、シンアルは低地です。現代のイスラエルでも、

雨季には川になる所が乾季には道として使われているそうです。危険な場所で、人々は知恵を絞って自分たちを守ろうとしました。主は彼らの言葉によって団結を崩しました。

そして、散らされていった人々は、それぞれの土地でそれぞれの文化をつくり、神が創り出した大地を覆う民となっていったのです。

 主なる神はイエス・キリストを地上に遣わし、十字架によって人々の罪を清めました。

そして主はペンテコステの日に、ご自分の霊 聖霊を地上に遣わしました。

聖霊は人々が驚くような音をたてて地上に降り、イエスを信じイエスの言葉を聞いて来た人々に留まりました。そして彼らを通して、聖霊ご自身が人間の言葉を語りました。

イエスの言葉を信じて従った人々を用いて、そこに集まっている人々の故郷の言葉で、

そこに集まっている人が理解できる話し方で、そこに集まっている一人一人に届くように、

そこに集まっている一人一人の「わたしの言葉」で。

聖霊なる神は 神の偉大な御業を語り聞かせたのです。

 聖霊降臨はバベルの塔で散らされた人々への回復の福音とも言われます。

聖霊はこの日、地上で御業を始めなさいました。聖霊は散らされた人々を同じ場所に集めることはなさいませんでした。神の造られた場所 どこにいても たとえ宇宙にいたとしても、

私たち人間が「わたしの言葉」として受けることのできる福音を与えるために、

聖霊なる神は降られたのです。

 唯一の神の霊は、分かれ分かれに現れ一人一人に留まりました。同じただ一人の神の霊を

受けて私たちは結び合わされました。聖霊が わたしたち一人一人を通して、わたしの言葉で福音を語るところで、教会は始まりました。

 低地の豊かな粘土で煉瓦を焼いた人々は、自分たちの祖先が洪水の中で生き残った時、

そこに働かれた神を呼び求める人々ではありませんでした。

彼らは地上に散らされましたが、主は彼ら全部、すべての人のために地上に救い主を遣わしました。   使徒言行録2章21節「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。

救い主イエス・キリストが約束した助け主 聖霊は、自ら私たち一人一人に留まり、

わたしたちを用いて 神を呼び求めることを教えて下さいます。

主がわたしたちの聞く力を回復し、聖霊によって私たちに永遠に至る福音を語らせて下さいますように!

お祈りいたします。