· 

「そのことの証人として」

 

 

 いったい何が起きているんだ?聖霊が降った音を聞いてエルサレムじゅうから集まった人々は、その人々が語るのを見聞きしました。あの人々が自分たちの言葉で、神の御業を語るのを聞いた。彼らが酔っ払いのわけはない。それなら何が起きている?

ペトロは声を張り上げました。これはナザレのイエスが起したことです。 

いま、私たちがあなたたちの言葉で語っていることは、イエスと関係があるんです。

ペトロはそこにいた人々が見聞きした、最近の出来事を思い出させました。

イエスは神に遣わされた方です。神はご自分が計画されたことを実行するために、イエスを

あなたたちユダヤ人の手に渡しました。あなたたちはイエスを十字架に架け、イエスは十字架で死にました。でも私たちの英雄ダビデが預言した通り

『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』のです。

神はイエスを死の苦しみから解放し、イエスは復活しました。

ペトロは、自分たちは復活したイエスに会った、そのことの証人だ、と言いました。

ペトロたちと共にいた人々の中には、イエスが昇天するところを目撃した人もいました。

奇蹟を行ったナザレのイエスが、十字架で死んで復活して、さらにあの人たちの前で昇天して。

それならイエスは地上にいない。なのに私たちが見たこの騒ぎを、イエスが起したって?

「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」

思いがけないことは起こります。実際に見なければ思いもしないことはあります。

これまで大きな地震は起きなかった。自分の家は高台にあるから、ここまで津波は来ない。 電車には安全装置がある。事故なんて起きない。でも、私たちの予想は何度も外れました。

私たちにできるのは、見たこと聞いたこと経験したことを繋ぎ合わせて考えることです。

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、

この方が神を示されたのである。ヨハネによる福音書1章18節」

ペトロは集まって来た人々に、彼らが見て来たことの意味と、そこで働かれた神の御業を

説明しました。彼らは確かに、ナザレのイエスが彼らの間で奇跡や不思議な業を行うのを

見ました。イエスは彼らの前を十字架を背負って通り、十字架に架かって死にました。

イエスはダビデ王の子孫として、王座につく方、です。

あなたたちもダビデ王を知っているし、ダビデの墓は私たちのところにあるでしょう?

私たちがずっと願って来た救い主、神から遣わされたキリストなのです、と。

イエスの死を思い出しショックを受けた彼らに、ペトロはダビデの預言を引用して言いました。あなたたちが十字架で殺したイエスは、復活しました。ダビデの預言通り、イエスは主なる神の右の座につき、父なる神から聖霊を受けて私たちに注ぎました。

あなたがたが見た今、神の霊である聖霊が、私たちに降られた。

あなたたちは私たちを通して語る聖霊の言葉を聞いたのです。

 使徒言行録2章の人々は、自分たちを驚かせた物音の理由を知ろうと、集まって来ました。

出エジプト記でモーセと共に旅した人々は、主なる神に呼び寄せられました。

出エジプト記20章で、主はモーセを通して十戒を授けます。その前に、主は民に命令しました。身を清めよ。山に登るな。山に触れるな。角笛の音がしたら、呼んだ者だけ来なさい。

命令を守らない者は、死ななければならない。

主は民に教えようとしたのです。主なる神は聖なる方。汚れたままで近づいてはいけない。

主なる神は正義の神。正しくないことはいけないこと。神は主なる方。神以上はいない。

神に勝てる者はいない。

厳しい命令を聞いて民は恐れ、呼ばれても近づこうとしませんでした。

 でも、モーセは違いました。神に呼ばれれば近づき、山が神の雲に覆われても恐れず神に

語り掛け、神は雷鳴で答え、神はモーセと語り合ったのです。

民にとって、神は恐ろしいわからない方でした。モーセにとっても神は恐ろしくわからない方ですが、モーセは神を自分の仕える主なる方として信頼していました。

神が民を呼び寄せたのは、神が民と契約を交わし、神の言葉 律法を与えるため

です。

 人間同士でも、だれかと親しくなるためには、守らなくてはいけないことがあります。

相手の嫌がることをしない。相手のためになることをする。相手を尊敬し大切にする。

神が人と契約を交わしたのは、神との付き合い方の基本を教えて、神が人と親しくなる方法を主は彼らに与えるため。 神が 何を嫌がる方か。何が神のためになるのか。どうしたら神を大切にすることができるか。  その方法、その基本が、十戒であり律法なのです。

モーセは神に仕え、神の御心を思い神と親しみ、民はモーセが神と語っているのを見ました。

「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。出エジプト記20章20節」

 まだ神を知らない民に、主はまず律法とモーセによって、神に近づく方法から教えました。

ユダヤ人たちは天の下で起きる不思議なこと、驚くようなことの意味を知ろうと、

集まって来る勇気を持っていました。

ペトロたちは彼らの知りたいことのヒントは、彼らの経験や彼らの聖書の中にある、と

説明することができました。

 私たちの周りには、沢山の「キリストの証」があります。

世界中の人がイエス・キリストが誕生した年から始まる、西暦の暦を使っています。(西暦を定めた人の計算とキリスト誕生の年は数年、ずれていると言われていますが)。

イエスが誕生した日を祝うクリスマスは、全世界に知られています。

十字架は もとは死刑のための道具でしたが、イエスの死によって十字架に愛や犠牲の意味が加わり、教会だけでなく学校や病院などでも用いられています。

イエス・キリストが人として生まれ、十字架で死に、復活された。

主イエスによって聖霊が世に降りました。驚く人々にペトロが語ったあの日、私たちの教会は始まりました。

主なる神は私たちの眼には見えない。けれども確かに、私たちは、

父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の働かれた証を見るのです。

私たちはいま、教会に集っています。

 私たち人も地球も何もかも、神に造られたすべては存在しています。主なる神が居られる。

私たちは、そのことの証人なのです。

お祈りいたします。