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「食卓に連なる」

 

 

 宴会に招かれていた人たちは、みんな招待を断り 食卓には集まりませんでした。

断った人たちは言いました。「畑を買ったので」「牛を買ったので」「結婚しましたので」

招待状を受け取った時、彼らは「行きます」と答えていたのでしょうに。

パーティーのため飲食店を予約した客が急にキャンルして、困った店の経営者がSNSで

「無駄にしないよう食べに来て」と呼びかけるのを何度か、見たことがあります。

このイエスのたとえ話で、家の主人は主なる神、この家の僕は預言者や福音を宣べ伝える者を現す、と言われます。教会学校の頃、私はこの箇所で、この世のことを神様より大切にした人たちが天国に入るチャンスを断ってしまった、というお話を聞きました。

 結果、招待客ではなく主人が僕に命じて連れて来させた人がこの宴会の席に着きました。

「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」連れて来られたのは、同じ14章の13-14節でイエスが招待するよう奨めた人たち。イエスは彼らを「お返しができない人たち」と呼びました。

招待されたら、そのお返しにまた自分の家で宴会を開いて招待しなくてはならない。お返しは人づきあいの方法の一つですが、面倒と感じる人も多いことです。

この宴会で食事を味わったのは、はじめに招待されていた人たちよりも「低い」存在の人たちでした。貧しい・体に障碍がある。これは当時のユダヤ人社会で、神殿に入ることのできない罪深い者と考えられていた人達だと言われます。通りや小道にいた、無理やり引っ張って来られる人たちは、異邦人のことだ、と考える人もいます。

この家の主人が親しく思っていた人たちは、宴会の席に着きませんでした。

 サムエル記7章ダビデ王は自分の宮殿に落ち着いて、ふと 神の箱が昔から使われてきた、

古い会見の幕屋にあることを思い出します。でも神の御計画はダビデの考えとは違いました。

ダビデがこれまで戦い続けたこと、王となってからも国の内外の多くの問題と向き合って来たこと。ダビデの努力、ダビデの苦労は主なる神もご存知です。しかし、主の導きが無ければ、ダビデの生涯はすべて存在しません。

国のことも、世界のことも、ダビデ自身の人生についても、主なる神にはすべての計画があります。ダビデは王ですが、ダビデを指導者としたのも、ダビデと共にいてすべての敵を退けたのも、イスラエルに住むべき場所を与えたのも、主なる神なのです。

ダビデとダビデの家には王権があります。それを授け確立したのは主なのです。

主はダビデが神殿を建てることを要求していない。優先されるべきは、主のご計画です。

ダビデの計画では無いのです。

 11-16節は、ダビデの子ソロモンとその子孫についての預言、と読めます。

でもここで とこしえに続く王国、とこしえに続く王座、と語られるのは、ソロモン王のことではありません。この箇所には、もう一つ 意味があります。

ダビデの子孫として永遠の王国を継ぎ、神から永遠の慈しみを注がれる王。

ダビデの子孫として生まれるイエスによって、神の国が永遠に確立する、という預言を、

主はサムエル記7章に記されたのです。

 言うまでも無く、主が創り出されたすべてのものに 主はご計画を持っておられます。

ダビデの家だけでなく、私たち一人一人も、私たちの家や家族も、すべて神の導きによって、

今があります。  

きょうのルカ14章15節、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人。この人に応えるかたちで、イエスはきょうのたとえ話を語りました。

宴会の席についた者たちは宴会を計画した主人の友人でも仲間でもありませんでした。

貧しさ、体の不自由さを抱え、助けがなくては生きていくことが難しい者たち。

自分の財産や家族や自分自身の命も、だれかの助け無しに守ることのできない人たちです。

 イエスが地上に居られたころ、貧しく者たちや障碍者は、自分たちの罪を贖う献げ物を、

することができない者、罪人である として、神殿で礼拝することが赦されていませんでした。

サムエル記下7章14節

「彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」

私たちは本来は、神の国の招待客となる資格を持たない者です。イエス・キリストが人間の罪をすべて、自分自身の罪として引き受けて下さり、私たちの罪はイエスの十字架によって贖われ清められたのです。

僕たちが主人の命令で彼ら、「断る理由をつくれない者たち」を連れて行った時、

彼らはその家で宴会が行われていることを知りませんでした。

私たちも、神が私たちを招いておられるとは知らなかった者です。

 僕たちは本来は入れなかったはずの人たちを招き入れました。

彼らはみんな席に着きました。嫌がって帰る人はいませんでした。

思いがけなく招かれた宴会で、彼らは食事を味わいます。でも、僕は言うのです。

「御主人様、まだ席があります」 すると主人は、

「無理にでも人を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ」と言いました。

 招待されていた人は言いました。「畑を買ったので」「牛を買ったので」「結婚しましたので」

招待を受けることができません、と。

自分のため家族のため、自立して計画的に生きることは、悪いことではありません。

ダビデの神殿建設の計画は良いことでした。ぜひ、実行して、と預言者ナタンも言いました。

しかし、神は神殿建設にも ダビデの人生にも別の計画があったのです。

私たちに主は命も未来も与えて下さいました。

主はダビデに言われました。地上のことも、今も未来も 動かすのは主。

主権は主なる神にあるのだ、と。計画するより先に、神の御計画を聞く耳を持ちましょう。

主は豊かな恵みによって、食卓を整えて待っておられます。

主の食卓に連なる恵みを断る理由は、私たちにはありません。

お祈りいたします。