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「神の手が働く」

 

 

病や困難を抱えてやって来る人々に、イエスはいつもこう言いました。

「あなたの信仰があなたを救った」 けれど会堂長ヤイロに「来て下さい」と言われた時、

イエスはその言葉を言いませんでした。

 会堂長ヤイロは現代で言うと町会長。ユダヤ人コミュニティの代表です。

彼の娘は12歳。大切な一人娘が死にそうな時、ヤイロは娘の傍を離れイエスを尋ねました。

自分が傍にいない間に子は死ぬかもしれない。

その不安を乗り越え、信じてここに来ました。イエスはきっと、娘を助けて下さる。

彼の信仰を見て、イエスは共に歩き始めました。

 彼らは群衆に取り囲まれました。その中の一人の女性。ヤイロの娘が生まれたころ、彼女は病気になりました。若い女性だれもが経験する月経。通常なら、月に10日前後で止まる出血が止まらなくなりました。医者から医者へ。彼女が全財産を使い果たしても、だれも治せない。

律法が汚れとする出血が続き、彼女は神殿にも会堂にも入れません。

イエスが来ると耳にした彼女は辛い体を圧して、イエスの真後ろに行きました。

イエスの服の房に触れた彼女に神の手は働きました。気づいたのは彼女とイエスだけ。

12年間続いた体の不調も貧血も、すぐ癒されました。

 イエスは立ち止まりました「わたしに触れたのはだれか」

イエスを取り巻く人は数十人?特定するのは困難です。 なぜイエスは騒いだのか。 

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。ローマ10章10節」

イエスの服に触れることができれば自分は癒されると心に信じ、彼女は行動して清められ癒されました。彼女は健康を取り戻しました。イエス彼女を癒すだけでなく、人々の前で彼女が清くされたと証明する必要があると考えました。

「力が出て行ったのを感じた」と言うイエスに、隠れようとしていた彼女は諦め、進み出ました。

病を抱えた人癒されたいと願う人は沢山いました。群衆の中で信じていたのは彼女だけ。

イエスの服に触れれば、きっと癒される。神の手を動かしたのは彼女だけだったのです。

汚れた身で主に触れてしまった。お叱りを受けるか。恐れる彼女に、イエスは言いました。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 申命記8章、荒野を旅する民に主なる神は再び命じられます。民はやがて約束の地で、

家や財産を得、豊かな食物を得るようになります。

主が与える戒めと法を守ること。主を忘れ他の神々に仕えたりしないこと。もし忘れるなら、

あなたたちは滅び去る。 主が民を滅ぼす大きな罪、として注意を命じられたのは、

「主を忘れる」ことでした。

 私たちに真の神を「忘れさせる」のは、外国の神々だけではありません。一生懸命になれば

なるほど、私たちの眼は自分自身に向いてしまいます。

もし、病を癒された女性が自分を褒めるばかりなら、苦労してきた自分、頑張って群衆をかいくぐった自分だけを見ていたなら、病は癒えても、魂の平安は無かったでしょう。

もしへりくだらないなら、神の御力を道具にした傲慢は、彼女を救いから遠ざけたでしょう。

 荒野の旅で民が主に背いた時、彼らは炎の蛇と呼ばれる毒蛇に襲われました。

この蛇はいつも、彼らのまわりにいました。主が信じて従う彼らを、蛇から守っていたのです。

彼らが不平を言う時も、主はすべて用意して彼らが「幸せになるため」働いて下さったのです。

 私たちが「幸せになるため」、主は私たちに働く場と責任ある役割を与えて下さいました。私たちが神を信頼して、自分たちの力の限りそれぞれの役割を果たす。それが主に仕える生き方となります。自分は頑張った。努力した、と、自分を褒めることは悪いことではありません。

同時に主は、私たちと共に主の御手が働くことを、知っていて欲しい、と求めておられます。

荒野の民を蛇から守ったように、主は今も私たちを守っていて下さるのです。

8:17-18「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと 考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、

主が先祖に 誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」

会堂長ヤイロもイエスの言葉を聞きました。「あなたの信仰があなたを救った。」

病気の娘を家に置き、イエスを捜しに来た彼の信仰を見て、イエスは彼と共に歩みました。

途中、娘の死の知らせを聞いた彼は、イエスの同行を断ることも考えたでしょう。でも

ヤイロは無言でした。彼はイエスと共に歩き続けました。

イエスは彼に言いました。「恐れることはない。ただ信じなさい」

家には「泣く人」が来て葬儀を始めようとしています。彼らは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」というイエスの言葉をあざ笑いました。

律法で死体は汚れ。彼らはヤイロと共に来た神の子、罪も汚れも清める救い主を無視しました。

 イエスが娘のところに連れて行ったのは、娘の両親と弟子のペトロとヨハネとヤコブだけ。主イエスはヤイロの傍から、彼の信仰を嗤う者を遠ざけました。

両親が見守る前でイエスは娘の手を取り、呼びかけました。

「娘よ、起きなさい」 

きょう、皆様と共に交読した詩編46編9-11節「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。

主はこの地を圧倒される。…力を捨てよ、知れ わたしは神。」

 身を切られる思いでイエスを連れて来たヤイロは、娘は死んだ、と嘲笑われました。

信頼する人からのアドバイスが、私たちを迷わせることはあるでしょう。

もっとも広く大きな視野を持つ方、命を与えて下さる方を信じましょう。

 イエスは娘に食事させるよう、指示しました。

神はヤイロの信仰に応え、圧倒的な力で娘を死から呼び返しもう一度命を与えて下さいました。

イエスはこの奇跡を誰にも話すな、と言われました。

もし禁じなければ、彼らは言ったでしょう。「イエス様が娘を生き返らせて下さった」

けれど、あの群衆の中であの女性だけが癒されたように、イエスを通して神の御手が働く時、

無くてはならないものがあるのです。

「あなたの信仰があなたを救った」神の御手は、私たちの信仰に応えて働いて下さいます。

お祈りいたします。